Pain d'épices  パン・デピス…1

フランスでスパイス入り蜂蜜パンは『パン・デピス』…フランス語でスパイスを「Épice:エピス」ということからの名称で、地域の歴史や文化を背景に、特産の蜂蜜やジャムなどを使い、各地でバラエティー豊かに作り継がれています。

パン・デピスの材料は極上のライ麦粉、砂糖あるいは黄色っぽい蜂蜜、それにスパイスである。全部をまとめて焼いて、望みの形の固まりに切り分ける。パン・デピスは食欲を刺激し、消化力を強め、保持する。ただし食べ過ぎは禁物である…    デュマの大料理事典P290

選び抜かれた良質の蜂蜜を用い、香料をひかえたパン・デピスは、痰を切るのを助け、のどの渇きをいやし、便通を促す。湿気によって柔らかくならないように保存するには、焼成の温度が適当でなければならず、日がたって変質しないようにするには、ときどき火であぶったり、陽に当てなくてはならない。 デュマの大料理事典P291

オルレアン地方のピティヴィエには、11世紀に亡命してきたアルメニアの司教 聖グレゴリウスがこの菓子をもたらしたという言い伝えが残っている。「フランス郷土菓子」河田勝彦P38      wikipedia ↓

オルレアンはフランス中部東から西へ流れるロワール川が北方へ屈曲した地にあり、中世初期 市はクローヴィス1世の王国分割に伴って生まれたオルレアン王国の首都であった。

オルレアンは常にロワール流域の戦略的要所であった。川が最も北側に曲がる地点で、パリに近接していたからである。ロワール川は危険な川であり、橋はわずかしかなかった。そのひとつがあったため、オルレアンはパリ、ルーアンとともに中世フランスでもっとも豊かな都市となった。

142958日にオルレアン包囲戦の際、解放した場所である

ピティヴィエ Pithiviers オルレアンの北約43kmにある

13世紀末 神聖ローマ帝国(現ドイツ)南部バイエルン州の修道院で、麦粉と蜂蜜を練って焼いていたパンの生地にスパイスが加えられ、『ペファークーヘン』が誕生しました。…それは次第に周辺地域に伝わり、ライン川沿いに進んでアルザス地方、さらにフランス王国のパリParisやランスReimsにも伝播していきます。

1400年代前半フランスとイギリスとの間で続いた戦争で、劣勢に陥っていたフランスですが、ジャンヌダルクの活躍により形成が大逆転!1453年イギリスは大陸から全面撤退して百年戦争が終結します。

ロワレ県のオルレアンといえば15世紀にフランスの王位継承権をめぐって勃発したイギリスとフランスの戦い「百年戦争」の際、この町をイギリス軍から解放し、シャルル7世をランスで戴冠させた国民的ヒロイン ジャンヌ・ダルクを語らないわけにはいかない。ジャンヌ・ダルクはロレーヌ公国となった地域のドンレミという村で生まれる。

1424年、12歳の時に大天使ミカエル、聖マルグリット、聖カトリーヌの3人の聖人が現れ、イギリス軍を追い払って、王太子シャルルをフランス王にせよ、という声を聞き、シノン城のシャルル王太子に謁見。

 それまでどんな手をつかってもイギリスに太刀打ちできなかった王太子側は、ジャンヌの出現に希望を寄せるのである。男装したジャンヌは軍隊を引き連れ、オルレアンに到着。 みごとオルレアンを奪回し、その3ヶ月後には聖人のお告げ通り、ランスで王太子をシャルル7世として戴冠させた。

 しかしコンピエーニュの戦いでイギリスと手を組んでいたブルゴーニュ公国に捕らわれ、シャルル7世の戴冠を手助けしたとして、ノルマンディー地方ルーアンで火あぶりの刑に処せられたのであった。

フランス伝統料理と地方菓子の事典 P 84、148

その時代のジャンヌ・ダルクの活躍で戴冠したフランス王シャルル7世(1403~1461)の愛妾であり、宮廷内で大きな影響力を持っていたアニエス・ソレルは、『スパイス入り蜂蜜パン』を「食べ飽きることがない」と表現しています。その後フランソワ1世(1494~1547)の姉にして、ナバラ王妃マルグリット・ド・ナヴァル(1492~1549)も『スパイス入り蜂蜜パン』が大のお気に入りだったと伝わりますが、フランソワ1世の次男アンリ2世の時代になると、メディチ家出身の王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)が実家から連れてきた家臣たちが、「麦粉と混ぜ合わせるスパイスに紛らせ、毒を盛っている」という噂が流れたため、たちまち疑惑の火種となってしまいます。

このため『スパイス入り蜂蜜パン』はパリやベルサイユでは姿を潜めます

歴代フランス国王の戴冠式が行われた神聖な町ランスにおいて、1420年頃あるパティシエがブルージュの職人が考えたパン・デピスを商品化した。当時イギリスに攻め込まれて窮地に陥ったフランス王国の首都になっていたランスで催された饗宴で、シャルル7世がこのレシピを高く評価した。

アレクサンドル・ディマは『大料理事典』のパン・デピス の項で

シャルル7世の愛人アニエス・ソレルは、フランス宮廷の食事に度々出されるこの菓子が大好物だったと語っている…当時は塩味のパン・デピスも好まれ、立方体にカットされて、現代のフランドル風牛肉のビール煮のように、煮込み料理のソースにとろみをつけるのに使われていた。そのような食事をとったあと、国王の4人目の子供を身ごもっていた「世紀の美女」は、激しい痙攣に襲われて早産したあげく、息を引き取ってしまった。彼女を嫌っていた王太子 のちのルイ11世が、パン・デピスの熱いソースになにか毒を入れさせたのではないかと人々はうわさした。

150年後 同じように毒殺を企てたのではと噂されたのは、毒物に精通したカトリーヌ・ド・メディシスであった。同じ煮込み料理が出されたのち、宮廷の人々が次々と腹痛に襲われたからだった。

お菓子の歴史P164

↓左からアニエス・ソレル、マルグリット、カトリーヌ・ド・メディシス by wikipedia

ランスが一大生産地に…

一方ノートルダム大聖堂で歴代フランス王戴冠式が行われた街ランスReims では1420年頃 饗宴で振る舞われたパン・デピスのレシピを国王シャルル5世(1338~1380)が高く評価したこともあり、ライ麦粉とシャンパーニュ地方産の蜂蜜を使って作られた「ランスのパン・デピス は最良」と名声が高まっていきました。1571年スパイスパン職人たちはギルド(同業者組合)を設立 … 製造権の独占を主張して、1596年 国王アンリ4世によって公認されると、『スパイス入り蜂蜜パン』は「ボワショ」と呼ばれて大変な名声を博し、フランス革命終了まで200年間フランス随一の生産を誇り、隆盛を極めました。

歴代フランス王が戴冠式を行った街シャンパーニュのランスReimsでは、はるかな昔からライ麦粉とシャンパーニュ地方産の蜂蜜を使って作られる「ランスのパン・デピス が最良」とされてきた名声を背景に製造が続き、1571年スパイスパン職人たちはギルド(同業者組合)を設立 … 製造権の独占を主張して、1596年 国王アンリ4世によって公認されると、『スパイス入り蜂蜜パン』は「ボワショ」と呼ばれ、大変な名声を博し、フランス革命終了まで200年間フランス随一の生産を誇り、隆盛を極めました。

 

当時のスタイルは、ドイツのレープクーヘン同様木型を彫り、そこに生地を押し込んで抜いたものを焼いており、1694年刊行の『Dictionnaire de l'Académie française アカデミー・フランセーズ辞典』で『スパイス入り蜂蜜パン:ボワショ』は「ライ麦粉、蜂蜜、スパイスで作られるパンケーキ」と定義されています。

一方、太陽王ルイ14世(1638~1715)の時代になると、スイーツをこよなく愛した王の寵愛を受け、パリでもその人気が復活しています。 

17世紀の終わり頃から18世紀の初めころにかけて、ランスの「クロケ」と「ノネット」が贈り物としてよく用いられた。もはや当代では子供のおやつにしか過ぎないが、それでもかなり大きな取引が行われている。デュマの大料理事典P289

『ボワショ』などと呼ばれた『スパイス入りの蜂蜜パン』ですが、18世紀初頭に『パン・デピス』と呼ばれるようになると、フランス国内でほぼ統一され、18世紀末には、薄く延ばした生地を人や動物を形どった抜き型でくり抜き、焼き上げるタイプのパン・デピスが現れ、1827年にパリの動物園でキリンが公開された時には、キリンを形どったパン・デピスが流行したと伝わります。

また この頃になると、ジンジャーブレッドメーカーと呼ばれた商人が、携帯用のオーブン:「カントリーオーブン」を運びながら移動し、屋外でパンデピスを焼くサービスを行っていたといいますから、その人気のほどがうかがえるというものです。

←「Reimsのジンジャーブレッドメーカー」18世紀の彫刻パリ カーナバレット博物館蔵 

https://levainbio.com/cb/crebesc/histoire-dun-pain-depice/

ディジョンでは…

18世紀初頭ブルゴーニュ地方のディジョンでも製造が盛んになり、コート・ドール県だけ12軒の生産者がいたことが分っています。

ブルゴーニュ地方はパリのリヨン駅からTGV(高速列車)利用で1時間半の距離にあり、『ワイン』や『マスタード』など美食の宝庫として名を馳せるエリアですが、かつてブルゴーニュ公国の都であったディジョンには14世紀にフランドルから嫁いできたマルグリッド3世によって蜂蜜パンの『クックドディナン 』が伝わっており、これをベースに地元特産のスパイスであるアニスを加えて誕生したのが『ボワショ』と呼ばれたディジョンの『スパイス入り蜂蜜パン』です。

1702年ディジョンの菓子職人の親方ボンナヴァンチュール・ペルランが「町の入口で隣村の住民が菓子やタルト、パン・デピスなどを売っている!」と苦情を訴える陳情書が残されています。これが『パン・デピス』という名称の最も古い記載とされ、以後フランス国内で作られる『スパイス入り蜂蜜パン』の呼称は『パン・デピス』に統一されていきます。フランス語で「スパイス」を「デピス」ということから、『パン・デピス』! 

コルトレイク(フランドルの都市)の人々は1420年代に王の入市式で、「ボワシェ」という小麦粉と蜂蜜で作った菓子を、宗主であるブルゴーニュのフィリップ善良公に捧げた。というのもこの菓子は、かつてフィリップ善良公の祖母マルグリット・ド・フランドルの大好物だったのである。

喜んだフィリップ善良公は菓子職人とその菓子をともなってブルゴーニュの首都ディジョンに戻った。そして100年後ブルゴーニュに『ゴードリー』というパンが登場した。キビと蜂蜜の伝統的な濃い粥『ゴード』で作られたブルゴーニュの名物である。

当時はこの粥を型に入れ、窯か灰の下に入れてもう一度火を通し、乾燥させていた。P163

『ゴードリー』のパンが本格的なパン・デピスに代わったのは、18世紀の初め、元居酒屋の主人ボナヴァンチュール・ペルランが売り出したのが始まりだと店の広告に書かれている。その時から、かつて強大なブルゴーニュ公国だった地域すなわちフランドル地方とディジョンの町がパン・デピスのメッカとなった・・・お菓子の歴史P164

ライ麦粉を使うランスやアルザスと違い、デイジョンのパン・デピスには小麦粉が使われ、香辛料は地元の特産スパイスである『アニス』のみが使われました…今でこそ、各種スパイスが加えられバラエティーにとんだパン・デピスが作られていますが、長い間ディジョンのパンデピスはアニス風味に限られ 、蜂蜜は地元プロバンス産のラベンダーハニーにこだわったものだったのです。

フランスには1369年にフランドル地方のマルグリット王女がブルゴーニュ公国のフィリップ豪胆公に嫁いだ際、デジジョンにもたらされた。しかしディジョンではライ麦ではなく小麦粉が使われ、これをきっかけに、ヨーロッパには2種類のパン・デピスが存在するようになった。ライ麦粉のベルギータイプと小麦粉で作られるディジョンタイプである。

1796年創業のディジョンのパン・デピス専門店『ミュロ・エ・プティジャン』では、パウンドケーキ型やカシスのジャム入りの小ぶりなものなど数種類のパン・デピスを販売しているが、創業当初からあるのは正方形の『パヴェ』。

かつては『パヴェ・ド・サンテ:健康パン』と呼ばれていた。バター不使用、多量に入るハチミツ、食に健康を求めるのは今も昔も変わらない。

パン・デピスはハチミツの種類によって風味が変わるが、一番高価なのはラヴェンダーのハチミツが入ったもの。

マルシェなどでもそれぞれの店の味のパン・デピスが並んでいる。

フランス伝統料理と地方菓子の事典P259

Pave ペーブ

ディジョンのパンデピスで最もオーソドックスなのは「Pave ペーブ」と呼ばれる大きく焼いた生地を切り分けたスタイルです。その製造工程は

① 甜菜糖のシロップと蜂蜜(プロバンスのラベンダーをはじめとする百花蜜)を混ぜたものに小麦粉を加えて練り、数週間ねかせる。

② ①の生地にスパイス、卵黄、ベーキングパウダーを加えて混ぜ合わせ、冷蔵庫内で熟成させる。

③ 生地を型に入れたり、薄く延ばしてから型抜きして焼き上げる。

④ メレンゲを塗ったり、果物コンフィで飾ったりして仕上げる。

機械を導入してオートメーション化している工程もありますが、手作業が担う分も多く残る作業です。

大きく焼いて切り分けて販売するスタイル『Pave』6Kgの小麦粉生地を焼きあげて12個にカットしています。↓

Nonnette ノネット

パンデピスの生地を小さく丸く焼き、中にコンフィチュールなどを詰めたものです。修道女:「Nonne ノンヌ」が作っていたことに由来し、修道女「nonne」 と、可愛い、小さいを表す「ette」から『Nonnette』

 中世期 パンデピスの生産が盛んだったシャンパーニュ地方のランスで生まれたといわれ、巡礼の旅に出る修道士が持参しては旅路の食料としたり、販売したり…14世紀になるとサスペンション付きの馬車が登場して乗り心地が向上すると乗合馬車にのって移動する旅人も多くなります。そんな旅人が買い求め、持ち帰ったことで各地に広まり、19世紀には列車の乗客のお土産として人気を集めました。

中に入れるコンフィチュールは地域の特産が反映して、ディジョンではカシス(黒すぐり)、アルザスではフランボワーズやブルーベリーなどが使われました。

現在ディジョンにある専門店の店頭には特産のカシス(黒すぐり)をはじめとして、レモン、フランボワーズ、ブルーベリー、チョコレートと種類豊富に揃い、パン・デピス生地にジャムのフルーツ感やしっとり感が加わり、美味しさを引き立てて…紅茶と愉しむのが素敵です。

フランス革命を経て、ナポレオンがイタリアに遠征して台頭を始める1796年ディジョンで現在に続くパンデピス専門店『ミュロ・エ・プティジャン Mulotet Petitjean』が創業します。

その後19世紀後半から第2次世界大戦まで、ディジョンには12軒の製造業者がいましたが、大手食品会社の参入の影響で、現在残っているのは『ミュロ・エ・プティジャン』のみ…今も伝統的手法を守る無形文化財企業(EPV)に認定されています。

19世紀『ミュロ・エ・プティジャン』工房内の写真 by Mulotet Petitjean

フランス人はパンデピスが大好き。スーパーには工場生産された品が季節をとわず置かれていますが、ディジョンでは手作り工房が健在で、昔ながらの製法や特色を守りながら製造を続け、ご当地自慢の伝統菓子として愛されているのです。

Dijon Ville駅から徒歩10分余り『ミュロ&プティジャンMulot & Petitjean』本店は15世紀の貴族の館で 木組みの可愛らしい建物が目を引きます。駅の北側 小高い丘の上には工場と博物館があり、パン・デピスと同社の歴史、原料、道具、昔使われた型などが展示され、ガラス越しに工場の見学も可能。ビデオを見ながら製造工程の説明を受けると、時間と人手をかけて作られることがわかり、愛おしさが倍増です。

Informations

La Fabrique de Pain d’épices Mulot & Petitjean   博物館

6 bd de l’Ouest 21000 Dijon

Mulot & Petitjean 本店

13 pl.Bossuet 21000 Dijon

 Mulot & Petitjean   200年以上前のポスターながら、新鮮!

 ディジョンといえば…「美食の街」 地元ブルゴーニュの『ワイン』に、マスタード、特産カシス(黒すぐり)からつくられるリキュール『クレーム・ド・カシス』、古くから栽培されているアニスシードを核(芯)にして、金平糖の要領で糖衣をつけた『アニスキャンディー』とお愉しみも沢山♪

「幸せのふくろう」のお出迎えが嬉しい街でもあります♫