イスラエルの歴史と過越の祭り

旧約聖書は紀元前1400年頃から約1000年間にわたり多くの人々が書いたものを集めたユダヤ人の歴史書です。

その最初の物語が『創世記』

神は6日間で天地を創造し、7日目に休息をとりました。神が創ったエデンの園にはたくさんの木々が茂り、中央に「知恵の樹」と「生命の樹」が生えています。そして神は土(アダマ)の塵で人間「アダム」をこしらえ、アダムのあばら骨の一部を抜き取って「イブ」をこしらえました。二人はエデンの園で幸せに暮らすのですが、悪魔の化身である蛇に誘惑されて神に禁じられていた知恵の樹の実を食べてしまうと…神がこれを見逃すはずはなく、二人は楽園を追放されてしまったのです。 …お馴染みの『アダムとイブ』のエピソードに加え、『ノアの箱舟』、『バベルの塔』など物語としても親しまれているお話もこの創世記に含まれています。

創世記から続くのが『出エジプト記』です。

神から召命を受けたモーセがエジプトで奴隷として暮らしていたユダヤ人を率いて脱出 長い放浪の末、神の約束の地カナンにたどり着く物語ですが、旧約聖書の中にはユダヤ人がエジプトの奴隷になった経緯はのべられていません。

一説には、紀元前14世紀ごろ イスラエルではいくつか部族が遊牧生活を送っており、ユダヤ人のルーツとなる人々もその部族の一つであった。そこに勢力を拡大していた古代エジプトが侵攻し、この地域を占領 遊牧民を奴隷としてエジプトに連れ帰り、配下とした。時代や王朝の変化で徐々に劣悪な扱いを受けるようになった…

また イスラエルで牧畜に従事していたユダヤ人は飢饉にみまわれ、エジプトへの移住を余儀なくされ、たどり着いたエジプトの地で農耕生活を営んで暮らすようになった。次第にその数が膨大になると、勢力が増すことを恐れたファラオが彼らを奴隷とし、重労働を課していった…

いずれにせよ ユダヤ人がイスラムを離れ、エジプトで暮らすようになってから400年ほど時が流れた頃、時のファラオ セティ1世は、神殿や葬祭殿、王家の谷の墓など壮大な建設事業の労働力としてヘブライ人奴隷(ユダヤ人はエジプトでヘブライ人と呼ばれ、自らはイスラエル人と称していました。)を酷使していたのです。

さらにファラオは、これ以上イスラエルの民が増えないように、「生まれた男子を皆殺しにせよ」との命を下します。まさにそんなタイミングでイスラエル人家族のもとに生まれたのがモーセでした。

モーセの母は命令に従わず、出産後3カ月隠し育てていましたが、いよいよ隠しきれなると、モーセをパピルスのかごに入れてナイル河に流したのです。折しも水浴びにやってきたセティ1世の妹王女ベシアが籠の中の赤ん坊を見つけて王宮に連れ帰り、モーセは王宮で育てられることに…

水からひきあげたのでヘブライ語で「引き上げる」の意味をもつ言葉「マーシャー」にちなんで「モーセ」と名づけられました。(出エジプト記2章)

成人したモーセがイスラエル人の住んでいる町に出かけた時のこと エジプト人によって鞭打たれるユダヤ人を見て助けようとしたモーセは、誤ってエジプト人を殺してしまったのです。

それが明るみになると、セティ1世はモーセをエジプトから追放します。 逃亡の身となったモーセは砂漠を彷徨い、シナイ山の麓にたどり着き、遊牧民のもとに身をおくことに…。その後 族長ジェスロの長女と結婚し、子供を持ち、羊飼いとして穏やかに暮らしていたのですが、神からイスラエルの民をエジプトより導き出し、神が用意したカナンの地に連れて行くよう啓示を受け、再びエジプトに戻るのでした

↓ モーセが遊牧民として暮らし、神の啓示を受けたシナイ山の麓には3世紀に『聖カタリナ修道院』が建設され、現在も多くの巡礼者を集めています。

エジプトに戻ったモーセは、奴隷として過酷な生活を強いられているイスラエルの民を解放するよう時のファラオ ラムセス2世と交渉しますが聞き入れられません。

そんな状況に対し、神は「エジプトに十の災いをもたらす」と警告 !…すると・・・ナイル川の水が血に代わり、魚が死に、水が飲めなくなりました。続いてカエル、ブヨ、アブといった害虫がエジプトを襲います。疫病で家畜が死に、エジプト人と家畜が腫れものに悩まされます。神はさらに雹(ひょう)を降らせて人や家畜を傷つけて作物を枯らし、その被害を免れた作物までもイナゴの大群に襲わせて根絶やしにし、さらにエジプト全土を3日間暗闇にしました。 それでもファラオの心は変わりません。

そこで最後の禍が起きます。神はモーセに『真夜中にエジプト中の初子はみな死ぬ。仔羊を屠って家に応じて食事にする用意をしなさい。それは家族の人数にみあって食べる量でなければならない。そしてその血を家の門柱と鴨居に塗りなさい。その夜、肉を火で焼き、酵母の入っていないパンを苦菜を添えて食べなさい』(出エジプト記12章1)といわれたのです。

その夜災いが起きてエジプト人の初子はみな死んでしまいました。ところがモーセの忠告に従い、仔羊を生け贄にして、玄関の柱と鴨居に仔羊の血で印をつけたイスラエル人の家族には災いは起こりませんでした。

神は扉に血が塗られた家は「過越して」、イスラエル人は災いを逃れることができました。これがユダヤ教で最も重要な儀式である『過越しの祭』になるのです。

固執に奴隷の解放を拒んだラムセス2世は、最後の災いで最愛の妻ネフェルタリとの長子を失い、イスラエル人の国外脱出を認めることになります。(出エジプト記12章29)

出エジプト記によると、大挙してエジプト脱出を図るイスラエル人の数は男性だけで60万人、総勢200万人とあります。

その後ファラオは大量の奴隷を手放すのが惜しくなり、イスラエルの民に軍隊を差し向けます。一行は葦の海の岸辺でエジプト軍に追い付かれますが、モーセが手を挙げると海の水が割れ、紅海を渡ることができました。イスラエルの民が対岸にたどり着いたところでモーセが再び手を挙げると海の水が元に戻り、追ってきたエジプト軍の兵士たちは海に飲み込まれてしまったのです。

                                     アメリカ映画『十戒』(1956年)より

無事エジプトから逃れたイスラエルの民はシナイ半島の荒れ野を40年さまよい、神様の試練を受けた後、約束の地カナン(現パレスチナ地域)にたどり着きますが、モーセはヨルダン川東岸にあるネボ山から西岸にあるカナンの地を眺めたものの、カナンの地に足を踏み入れることなくその生涯を終えたのでした。

聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写されるカナンで初代サウル王が古代ヘブライ王国を建国、紀元前11世紀末 2代目のダビデ王はエルサレムを新しい都とし、周辺諸国を次々と征服して40年間王位につき、王国を繁栄させました。

過越の祭り

こうして長い苦難の末、建国を成しとげたユダヤの人々が、モーセに導かれてエジプトを脱出した祖先の歴史に思いを馳せて祝うのが『Pesach ぺサハ』 日本の教会で言うところの『過越の祭り』です。

前述のように、ユダヤの人々を解放しようとしないエジプトのファラオに対し、神は最後の災いをもたらすのですが、それに先立ちモーセから 仔羊を生贄にし、その血を家の扉に塗るよう告げられたユダヤ人たちはそれに従います。そしてその夜 神はエジプト中の初子をみな殺しにするのですが、扉に血が塗られた家だけは〝過ぎ越して〟ユダヤ人は災いを逃れたのでした。

こうして神が〝過ぎ越した〟ことから英語圏で『過越の祭り』は「pass over」と呼ばれています。

またユダヤの人々が過越祭を「ぺサハ」と呼ぶことから、フランスでは「パーク」イタリアやスペイン、ギリシャ、スウェーデンなどでは「パスカ」と呼ばれています。

ユダヤ暦の新年は春分後の新月から始りますが、過越の祭り『ぺサハ』はその年の始まりである第1の月「ニサン月」の14日の夜から一週間とされ、アーモンドの花がイスラエルに春の訪れを告げる頃 祖先の苦難の歴史と建国を祝うため、古来から続くさまざまなしきたりに準じて過ごされます。