ロシアンティーと中国茶

『先生の誕生日』    https://jp.rbth.com/multimedia/pictures/

屋外で先生の誕生日を祝うロシアの子供たち…ニコライ・ボグダノフ・ベルスキーが1920年頃に描いた作品です。

先生は机上のサモワールで沸かされた紅茶をグラスに注いぎ、子供達は紅茶を受け皿に移して飲んでいます。少しまぶしい木漏れ日のもと 楽しくおしゃべりが弾むお茶会は子供時代の大切な思い出になっていることでしょう…

ロシアに渡ったお茶

1685年モスクワの南165Kmにある都市トゥーラでプリャーニクが生まれたとされる頃、ロシアに中国からお茶が運ばれるようになりました。プリャーニクと紅茶とは好相性で、その後ロシアの人々の団欒になくてはならないものになっていきました。

1618年 明の朝廷は欽差大臣をロシアに派遣 ロマノフ朝の初代皇帝ミハイルに緑茶を数箱贈呈しました。これがロシアに残る最も古いお茶の記録です。

1689年 ピヨートル1世統治のロシアと清朝の間で両国の国境を定める『ネルチンスク条約』が締結されると、一時途絶えていた交易が再開しました。茶葉に蒸気を当ててから圧縮してブロック状に固めた『磚茶:たんちゃ』を積んだラクダの隊商が、漢口(現在の湖北省・武漢市)からウランバートル、モンゴル国境の街キャフタ、シベリア、ウラル を通ってモスクワまで…1年以上かけて、最長1万8,000kmもの距離を往来するようになり、1720年代には大量のお茶が貿易品としてロシアに運びこまれるようになっていました。

                                                                by  https://www.bokushinan.com/post/

左の写真は1700年代福建省でロシア向けに作られていた磚茶 右は現代の磚茶です。磚茶は『餅茶』とも言われ、かさばる茶葉を運搬しやすくする工夫からうまれたもので、必要な分だけ砕いて使います。                                               

この頃の中国では、戦乱の中の偶然から『烏龍茶』が生まれ、その後福建省武夷山(ぶいさん)の山間の村で『紅茶』ができたばかり…ミハエル皇帝に献上されたのは中国で古くから生産されていた『緑茶』で、交易が始まって間もない頃ラクダのキャラバンが運んだ『磚茶』は『紅茶』ではなく、『黒茶:チンツァー』だったと考えられています。

『黒茶』はその集積地になっていた街の名前から「普洱茶:プーアールチャ」とも呼ばれ、雲南省とその周辺で1000年以上生産され、磚茶にして中国各地、チベットやインド、ネパール方面にも運ばれていたもので、ウーロン茶や紅茶の生産量が増えるにつれて、ロシアへに向けては紅茶の輸出量が増えていきました。

サモワール 全盛

初期の喫茶スタイルは中国流を模倣していましたが、やがてロシア独自のスタイルが誕生します。その中心となったのが「自ら沸かす」という意味を持つ金属製の湯沸かし器『サモワール 』です。

名称はロシア語の「サミ」=「自分で」と「ワリーチ」=「沸かす」を結合したもの

どの家庭でもテーブルの中央がサモワールの定位置となり、日々の生活ではもちろんお茶会ともなると、大活躍…

中央の筒部分に炭や木片、松ぼっくりなどの燃料を入れ、その周囲の空洞部分に水を注ぎ入れたら準備完了 白樺の表皮や新聞紙などに着火して燃料筒に入れて焚きつけ、水が沸騰するのを待つのですが、その間ティーポットに茶葉をたっぷり入れて、スタンバイ! ピーピー シューシュー 沸騰を知らせる蒸気音を合図にポットに湯を注ぎ、サモワールの最上部にセットして、立ち上る熱気と湯気でしばらく煮出します。

…濃く入った紅茶をティーカップに半分ほど注ぎ入れるのは家人の役目。客人たちは各々のカップにサモワール下部の注ぎ口からお湯を足して好みのお茶に仕上げたら… お待ちかね 宴の始まりです

テーブルにはお皿に盛られた「プリャーニク」、伝統の輪形パン「バランカ」、味のついた平たいパン「プリューシカ」、キャンディー、砂糖の塊、そして薄切りのレモンや果実を砂糖で甘く煮たロシア風ジャム=「ヴァレーニエ」が並び、厳寒時にはウォッカなどの蒸留酒が添えられることも。

話が弾んで、もう1杯…炭の残り火は保温性に優れていますから、サモワールにはお湯がたっぷり用意され、その最上部に置かれたティーポットには紅茶が温かいまま保たれて…2杯目 3杯目の「おかわり」も万全です。

ご紹介しているお茶を楽しむシーンが描かれた絵画は1900年代初頭の作品です。当時はサモワールからお湯を注いでカップ内のお茶を好みの濃さにしたところで、さらにカップの受け皿に紅茶を移し変え、3本の指でお皿を持って、音をたててすするのがマナーとされていました。

これは、オランダやイギリスで行われていた飲み方がそのまま伝わったもの…茶葉と一緒に中国茶器を輸入して、それを使って中国の喫茶スタイルを真似てお茶を飲み始めてみたものの、取手のない茶碗は熱い紅茶を注ぐと持つのが難しい!そのため受け皿に移して飲むようになったのです。

やがて取手がつけられたヨーロピアンスタイルのティーカップが考案されますが、お皿に移す必要がなくなってもこの習慣は長く残りました。

音をたててすする…のも中国および日本人の飲み方を真似たものでした。長年渋みのつよい緑茶を愛飲した中国人や日本人は、ズッズ スッ お茶をすすると空気(酸素)が一緒に入り込んでお茶の渋みが和らぎ、まろやかになることを経験で知り、ズッズを実践してきたのです。エスプレッソコーヒーを泡立てるのも、この酸素の効果を期待してのもの…。

砂糖の欠片はカップではなく口に入れて、熱い紅茶をゆっくりと飲みながら口の中で溶かしていく。または、お皿に分け入れた紅茶に角砂糖を少々浸し、甘くした紅茶をお皿からすするのがロシア流でした。ただし、現在はカップに入れる派が多くなっているようです。

ロシアのジャム『ヴァレーニエ』もお茶請け感覚「ジャムをなめながら紅茶を飲む」というスタイスで、紅茶に入れることはありません。日本でいわれる『ロシアンティー』は戦後シベリアで日本人が砂糖がわりにジャムを入れていた飲み方を帰国後伝えて広まった…といわれています。

ミルクや生クリームを添える習慣がないのもロシアらしさ。体を温める紅茶は主に寒い季節の飲み物で、夏の飲み物は、ライ麦パンと白樺の樹液を発酵させて作る微炭酸清涼飲料『クワスKbac』や、ヴァレーニエを水で割った『モルス』、ハーブティーや野草茶でした。

凍てつく寒さが続くロシアの冬、サモワールは暖房器具としても頼りになる存在でしたから、サモワールが置かれたテーブルを囲んで家族や友人と温かい紅茶を飲みながら過す団欒は、身も心も暖かくしてくれたに違いありません… 

ボリース・ミハーイロヴィチ・クストーディエフ作

『モスクワのレストラン』1916年                 by  wikipedia

ピヨートル大帝がオランダから持ってきた?

サモワールの起源となりますと、諸説あって、「これに違いない!」は難しいそう。モスクワから北東へ170km 蜂蜜の名産地としても知られた古都スーズダリの修道院で、蜂蜜とスパイスと水から作る『蜜湯』に使うお湯をサモワールで沸かしたとの記載が残ることから、紅茶が普及する以前にも、一部の地域の裕福な人たちはサモワールを使っていたことがわかります。

1740年代紅茶を飲む習慣の普及により、サモワール の需要が増えることを見越したウラルのデミドフ工場の職人たちが試作を始めます。当時ウラルは鉱山と兵器産業拡張のため工場が次々に建設されており、故郷のトゥーラから職人たちを連れて来ていた鍛冶の名工ニキータ・デミドフはそこで銅製のサモワールを作り上げました。

その後故郷トゥーラ に帰った職人たちはそれぞれ工房を開き、サモワール作りを続けますが、トゥーラの近郊に鉄鉱床があったことも手伝って、サモワールの生産は著しく発展…19世紀半ばには28のサモワール工場ができ、年間12万台が生産され、トゥーラ のサモワール はロシアのみならず、ヨーロッパ全土で有名になっていきました。

初期に製造された青銅製は耐久性に問題があったため、真鍮やニッケル、錫などの合金製に移行し、バリエーションも増え、1人分の携帯、行軍用もあれば、数十リットル湧かせる固定式のも造られました。取手や蛇口の形状だけでなく、形そのものもバラエティー豊かに進化して、芸術品の域のものまで出現!

                                                                   by https://liseykina.livejournal.com/247777.html

豊かさや、暖かい家庭の象徴になったサモワール 19世紀には平均的な3~8Lタイプでも10ルーブルほどで、これは労働者の給料1ヶ月分に当ります。それでも人々はお金を貯めて、一生に一度の買い物をし、大切に使いながら次の世代に引き継いでいくことに意義や喜びをみいだしていたのです…

燃料には、炭・薪・松ぼっくりなどが使われました。松ぼっくりは燃焼が早くて火持ちは悪いのですが、松葉の香りが水に移るので好まれました。電熱式のサモワール が多くなった現代でも、昔ながらの木切れで焚くサモワールを愛用する派も健在 お湯加減を見計らって「追い松ぼっくり!」…パチパチ燃える音を楽しみ、松の移り香をまとった紅茶を口に含む…想像しただけで幸せです。

茶樹栽培の試み

茶葉の需要拡大に応えるべくロシア国内での茶樹栽培も模索されました。お茶の樹は亜熱帯地域に属する中国雲南省が原産ですから、寒冷なロシアでは栽培可能な地域が限られます。

調査の結果当時ロシア帝国領だった『グルジア(ジョージア)』と『アゼルバイジャン』で茶樹栽培が試みられることになり、1833年クリミアにあるニキティ植物園に中国から取り寄せた茶の種子が蒔れました。紆余曲折はあったものの茶樹は気候に順化し、100年後1900年代に入る頃には安定的な収穫が得られるようになっていました。

さらに寒冷のため茶樹栽培は無理とされていたクラスノダール地方のソチ近郊でもグルジアから苗を運んだ生産者が茶樹の気候順化に取り組み、努力のかいあって1913年最初の収穫を得るに至ります。

1991年12月のソビエト連邦解体によりロシアはグルジアとアゼルバイジャンの茶畑を失いますが、クラスノダール紅茶は生産量は少ないものの、香り高く繊細な風味が評価され、「紅茶通のための特別な紅茶」として、ロシアのみならず、ヨーロッパで支持を得、『世界最北の紅茶』として今に至っています。↓クラスノダール州ソチの茶畑と収穫の様子  

                                                            by https://jp.sputniknews.com/photo/201805224903819/

茶樹の国内栽培 そして紅茶の国内生産を模索したものの、総需要量には到底応えることはできず、1895年ロシアは中国産のお茶の最大の消費国で、その輸出量はおよそ55,000 t  その8割は陸路でロシアの都市部に運ばれていました。

この交易は1869年スエズ運河の完成で規模が縮小するものの、1916年にシベリア鉄道がモスクワと極東ウラジオストク間で開通するまで、200年以上続けられたのでした。

その後 ロシアの茶葉の輸入先は、イギリスが茶園経営を進めたことで生産量が飛躍的に増えたインドやスリランカに代わっています。

トルコのチャイとチャイダンルック 

ジョージアやクラスノダールといったロシア最南部での茶樹栽培が順調に進むと、紅茶を楽しむ文化はサモワール とともに次第に南下していきました。

19世紀後半には イギリスが開墾したインドのアッサムやニルギリの茶園からインド産紅茶が陸路イラン経由でトルコに入るようになりました。

さらにトルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクが、国内産業の振興を図るため、サムスンSamsunを中心とした東黒海地方での茶の栽培を奨励したことにより、本格的な国産茶の栽培も始まります。

内外からの紅茶流入でトルコでも独特のサモワール『チャイダンルック』が造られるようになり、トルコ流のお茶文化が花開いていきます。

トルコ式サモワール『チャイダンルック』は下段のポットで湯を沸かし、上のポットで紅茶を作ります。今では二段のポットの下に炭などの熱源を入れてセットするオールドタイプに変わり、ガス火や、IHヒーターで加熱するタイプが主流になっています。

 

日本ではひとまとめにチャイダンルックと紹介されることが多いですが、

二段の専用やかんには、それぞれに名称があり、下段=『チャイダンルックÇaydanlık』 上段=『デムリッキ Demlik 』です。

トルコの紅茶『Çay チャイ』の淹れ方は…

① 下のポットに水、上のポットに茶葉をたっぷり入れて火にかけて、下段のポットの水が沸騰するまで加熱します。

② 沸騰したら、そのお湯を適量上のポットに注ぎ、下のポットには水を追加して弱火で4~5分加熱を続けます。

③ 上段のお茶の抽出が進んだところでチャイ用カップ『Çay Bardaklari  チャイバルダック』に注ぎ入れ、紅茶が濃いようなら、下段で沸かしたお湯を加えて調整し、お好み量の砂糖を加えて…出来上がり ミルクを入れることはありません。

トルコ流サモワール『チャイダンルック』は、加熱が進むにつれ下段ポットからあがる蒸気が上段ポット内の茶葉を蒸らすことにより、香りの良い風味豊かな濃い紅茶をつくることができるとして絶大な支持を受けており、トルコの人たちは一年中熱々のチャイを楽しみます。

RizeリゼやTrabzonトラブゾンなど黒海沿岸地域の茶園は大きく成長し、トルコの紅茶需要を支えるまでになっています。

現在トルコは国民1人当たりの紅茶消費量が世界1!それに続くのはアイルランド、英国、ロシア…です。

追伸…以上中国からロシアに運ばれた紅茶が普及して確立したロシアンティースタイルについてお伝えしてきましたが、国土の広いロシアのこと…チベットやモンゴルに接する地域では、チベットの『バター茶』やモンゴルの『スーティー・ツァイ』の影響を受けて磚茶をベースにバターやミルク、ナッツ類も混ぜて、うっすら塩味のスープのような飲み方をしている地域もあり、『お茶』が使われるシーンの多彩さに、興味が尽きません。

追追伸…10年以上前になりますが、イラン大使館でチャイを淹れていただいた時の写真です。ロシア式のサモワール にトルコに通じるチューリップスタイルのチャイグラスでふるまっていただきました。

サフランを入れた氷砂糖『サフランナバット』をグラスに入れて甘いチャイを楽しむのもイラン流…

どちらもロシアの画家ボリス・クストーディエフが描いた『お茶を飲む商人の妻』