ピエルニキ Pierniki 

『ピエルニキ』はポーランド北部ヴィスワ川沿いに広がるトルンの町で700年作り継がれるジンジャーブレッドです。ワルシャワから北西に電車で3時間ほど レンガ作りの建物を石畳の道がつなぐトルン旧市街にはピエルニキの専門店が点在して、中世の姿そのままの凹凸レリーフが美しい硬焼きタイプがデザイン豊富に継承されているかと思えば、膨張剤を使ったふっくらソフトな食感のものも。ソフト食感のものはバラやプルーンのジャムを入れたり、チュコレートでコーティングされていたりとバラエティーに富んでいて、スパイシーで甘い香りに誘われながらのそぞろ歩きを楽しめます。

女王蜂の贈り物

トルンの町にはこんなお話が伝わっています…「むかし トルンに王様がお出ましになることになりました。一行をお迎えするにあたり、新たな美味しいお菓子を作るよう命じられた若いパン職人のBogumilボグミッチが試作にふけっていると、女王蜂が現れて蜂蜜とレシピを贈ってくれたのです。それに従って小麦粉にスパイスと蜂蜜を加えた生地を焼いてみると、それはそれは美味しいクッキーができ、『ピエルニキ』と名付けられました…」

 使われるスパイスは、シナモン・クローブ・ジンジャー・ナツメグ・カルダモンなど。焼く前に生地を寝かせることが美味しいピエルニキを作る秘訣で、その時間が長ければ長いほど格が上がるといわれており…その期間は数日から1年に及ぶこともあるそう。

ポーランド国内でジンジャーブレッドは『ピエルニクPiernik 』スパイスクッキーは『ピエルニチキPierniczki 』と呼ばれて親しまれていますが、トルンに限っては『ピエル二キPierniki 』!トルンといえば…「地動説を唱えた天文学者コペルニクスと、Pierniki Toruńskie:トルン風ピエルニキ」と答えが帰ってくるほどトルンを代表する郷土菓子です。

17世紀の詩人フリデリク・ホフマンの残した言葉「ポーランドが誇る4つの名物は、グダニスクのウオッカ、トルンのピエルニキ、クラクフの乙女、ワルシャワのアンクルブーツ(靴)」からも、トルンに限らず、ポーランド国民にとってピエルニキ がいかに誇りと親愛の気持ちで大切にされてきたが伝わります。

そしてトルンには「女の子が生まれたら、その日のうちにピエルニキの生地をこねて保存しておき、その子が結婚するときに持たせる」習わしがあり、さらに、「一人前の花嫁になるには美味しい『ピエルニキの生地』と、『ジュレク』(ソーセージと野菜とゆで卵が入った酸味のあるスープ)が作れること」ともいわれているそうですからピエルニキは一生身近において家族と分かち合う無くてはならない基本食といえそうです…

呼び名の由来は…

『ピエルニキ(Pierniki)』『ピエルニクPiernik 』『ピエルニチキPierniczki 』、語尾が微妙に違う3つの言葉 どれも「胡椒」を表すポーランド語『pieprz ピエナ』に由来するもので、中世「胡椒」はスパイス全般を指して使われる言葉でしたから、ドイツの『ペファークーヘン』同様「スパイスを使ったパンケーキ」といったところでしょう。

年間を通して食べられますが、ホームメイド熱が上がるのは秋も深まってから…アドベントのお菓子として10月末頃生地を作って寝かせておき、11月末にたくさん焼いて、それを日々のティータイムに楽しみながらクリスマスを待つのです。

町の歴史

トルンは首都ワルシャワから北西へ約200km余り、IC列車で2時間30分〜3時間 車だと3~4時間ほど 町の中をヴェスワ川が流れる人口約20万人の地方都市です。

町の起源は13世紀半ばにさかのぼり、トルンはキリスト教化が進んだヨーロッパと、現ポーランド北東部からリトアニアにかけて広がる自然崇拝や部族宗教をもつプルーセン人が暮らしていたプルーセン地域の緩衝地帯に位置していたことから、ドイツ騎士団が植民し、キリスト教化の拠点として城を築いたことに始まります。

ドイツ騎士団は1283年にプロイセン(ドイツ北部からポーランド北部にかけてのバルト海沿岸地域)全土を平定するまで、50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させていきました。さらに征服した土地にドイツ人農民が次々と入植し、ドイツ式の農村を建設したのです。

その後 トルンはバルト海からヴィスワ川を使ってワルシャワや古都クラクフなどの内陸都市に物資を運ぶ水上交通路の中継交易都市として栄え、1367年にはハンザ同盟に加盟してヨーロッパの中でも重要な商業都市になっていきました。…そうして町が豊かになり、住民が力をつけて自治意識も強くなると、悪政を行い、各地で略奪を繰り返すドイツ騎士団との緊張が高まります。

1454年市民たちは蜂起し、騎士団を町から追放! 城塞も破壊されました。ドイツ騎士団を追放したことで町はますます繁栄し、残された城跡は当時の状態のまま現在は観光スポットになっています。

(左右)ドイツ騎士団が築いた城塞跡 … 堅固な城塞が築かれ、二重の城壁で町を囲んで敵の襲来に備えていました。

1684年のトルンヴェスバ川風景 https://www.wiatrak.nl/10384/historia-torunskich-piernikow

レシピの伝播

ピエルニキにつながるスパイスパンケーキのレシピはディナン(現ベルギーにある街)の『クックドディナン 』がドイツ西端の街アーヘンに伝わり、ドイツからの入植者とともに伝わりました。

トルンには肥沃な土壌から獲れる最高品質のライ麦や小麦と、ヴィスワ川の対岸に広がる森や近隣の村で採れる良質な蜂蜜がありました。スパイス類はインドからシルクロードを通って運ばれ、黒海からウクライナのリヴィウを経由して神聖ローマ帝国へ そこから北ドイツのハンザ商人によって輸送されており、スパイスパンケーキ作りには好都合でした。

時代が進み1600年オランダが東インド会社を設立すると、インドやインドネシアから大量のスパイスが海路を帆船で運ばれ、グダニスクの港からヴィスワ川を遡ってトルンにもたらされるようになり、輸送時間が短縮されて、供給される種類や量も増えていったのです。

19世紀末グダニスクの港からヴェスヴァ川を遡って物資を運んだ帆船

 https://www.wiatrak.nl/10384/historia-torunskich-piernikow

現代のヴェスヴァ川は市民の憩いの場

誕生と発展

トルンピエルニキ博物館所蔵の資料によると、「1380年 Niclos Czanaニクロス・チャナというパン職人が、パンに加え、スパイスの効いたクッキーも焼いた」との記述が見られ、おそらくそれは、ドイツからの入植者が伝えたレシピが作り継がれたもの。そして『ピエルニキ』という呼称が現れるのは200年の時を経た1564年  市に残された台帳にある記録「ピエルニキ職人シメオン・ナイセルの死に関する情報…」に初めて見ることができるようです。

ギルドが結成されると、職人たちはそれぞれ独自のレシピをもち、その材料や配合などを門外不出としました。レシピは厳重に守られ、口伝で世代から世代へと受け継がれたのです。そんな背景もあり、最古のレシピとして見ることができるのは1725年発刊の医学大辞典 Compendium medicum auctum に掲載されているもので、それは調理のための記述ではなく、生地に加えられたスパイスの治癒特性を表すためのもでした。ラテン語で書かれた当時の詩にも「このスパイシーなパンはワインやウォッカとの相性もよい…」と評され、ピエルニキは国内だけではなく国外でも認知され、人気を得ていきます。

市当局もスパイスの消費税を免除してピエルニキの生産を助け、貿易を促進させるため、パンギルドによるスパイスの輸出入にいくつかの減税措置を行いました。そんな追い風を受けたこともあり、トルンのピエルニキ製造は、17~18世紀にかけて頂点に達し、ヨーロッパ全土に名を馳せていたニュルンベルクのレープクーヘンと並び称されるほどになります。

しかし、17世紀半ば ロシア軍、スウェーデン軍などによるポーランド侵攻に始まり、戦争が続いて国は衰退の一歩をたどり、1795年 ポーランドは国家が消滅し、帝政ロシアの支配下に置かれます。フランス革命の影響を受け、1830年11月 ワルシャワでポーランドの反乱が起きましたが、帝政ロシア軍に制圧され、革命は失敗に終わりました。この時の挫折や怒りからショパンが作り出した曲が、「革命」です。
その後もロシアによるポーランドの抑圧はしばらく続き、欧州への復帰は第2次世界大戦後、1999年のNATO加盟、2004年のEU加盟を経てようやく実現しています。

こうした時代背景もあり、18世紀末から19世紀になると、ピエルニキの生産需要は低迷し、それに伴って職人技も衰退…1825年にはトルン市内には3件の専門店が残っているのみとなってしまいました。第二次対戦後資本主義が台頭すると、ピエルニキは大企業の工場で大量生産されるようになり、息を吹き返し、個性豊かな専門店も戻ってきました。

手彫りの木型は芸術の域!

800年の歴史をもち、さまざまな状況下で作り継がれたピエルニキですが、そのレシピが確立すると、焼き上がりのフォルムにも意識が向けられます。中世期 木彫り職人が手がける芸術性の高い緻密な木型を使って焼き上げられ、洗練されていきました。そのモチーフはポーランドの王と王妃、天使、母と子、飼い葉桶、動物、兵士など… 個人の肖像を大きなレリーフにすることもありました。

それは国賓への贈答品や、Torunトルン市から、国王や王妃、王子への献上品としても使われ、近年ではポーランド出身のヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)をはじめとする国内外で活躍する同胞にも贈られています。

19世紀 膨張剤や砂糖の使用による型抜きスライルへの移行により、木型が使用されなくなると木彫りの製造技術継承は衰退し、現存する最古の木型は17世紀初頭のもの。

 700以上残っていた木型は、第二次世界大戦で半数近く失われてしまいましたが、現在それら木彫りの傑作は旧市庁舎やピエルニク 博物館の常設展時で見ることができます。

Thorner Kathrinchen:トルン風カトリンヒェン

 17世紀トルン郊外にある聖カタリナ修道院(通称「Kathrinchen」)で 11月25日 聖カタリナの日のお祝いに焼かれたピエルニキ が美味しいと評判になりました。国内だけでなく国外にも『Thorner Kathrinchen:トルン風カトリンヒェン』の呼称で輸出されると人気を集め、…以来ピエルニキ は『キャサリン』(カタリナの英語読み)の愛称でも呼ばれるようになります。 おそらく当初は彫りの施された木型に生地を押し当ててから焼く凹凸レリーフタイプだったでしょう。時を経て、現代では『Thorner Kathrinchen:トルン風カトリンヒェン』といえば、円を3つ2列に並べた雲を思わせる形の、ふんわり柔らかいタイプが主流。

Catherine カタジンカ(ポーランド語:Katarzynka)の由来は…

聖カタリナの日に向けて忙しく働いていたピエルニキ職人が体調を崩して寝込んでしまうと、父親思いの娘が代わりを引き受けます。生地をこねて型抜きをするにあたって、美しい木型が見つからず、手近に合ったカップで丸く抜いた生地を並べて焼くと、焼き上がったピエルニキは膨らんでくっついているではありませんか! その雲のような形は好評で娘の作ったピエルニキはよく売れて、父親も大いに喜びました。その後この雲の形のピエルニキは、「カタジンカ(カタジンキ)」と呼ばれて作り継がれています。というお話。

さらに、『聖カタリナ』が殉教する時 縛り付けられた車輪をモチーフにした…との説も伝わり、現在プレーンなものやチョコレートコーティングされたものが工場の生産ラインで大量生産され、国内外に出荷されています。

*聖カタリナ(アレキサンドリア)  ?-309年

カタリナは、エジプトのアレキサンドリアの貴族の家に生まれ、才能に恵まれて、早くから学問を修めて育ちました。あるとき彼女は、ひとりの隠修士からキリストの教えを聴き、洗礼を受けました。カタリナが18歳の時、ローマ皇帝マキシミヌスは市民たちに自身の偶像崇拝を命じ、従わない者は処罰するとの宣言を公布しますが、カタリナは公にキリストへの信仰を表わしました。皇帝は50人の学者を集め、彼女を屈服させようとしたのですが、学者たちは彼女に感化されて、キリスト教こそ真の宗教であると公言し改宗してしまったのです。

憤慨した皇帝は学者全員を処刑しましたが、カタリナに対してはその学識の豊かさと美しさに心をひかれ、彼女が信仰を捨れば皇后にするとまで言ったのです。しかし彼女が拒否したので皇帝は怒り、彼女を車輪に縛りつけて身を引き裂く刑の執行を命じました。それでも彼女が命を落とさなかったため、斬首されたとのことです。彼女の遺体は天使によってシナイ山に運ばれたと伝えられています。

カタリナを敬う習慣は8世紀ごろに東方教会から西方教会に伝わり、10世紀にはイタリアを中心に広まりました。釘を打った車輪、イエス・キリストとの婚約指輪、剣などを持った姿の絵画が残されています。

ショパンとピエルニキ 

ショパンもピエルニキを愛しました。

1825年の夏休み 15歳のショパンは、親友の実家のあるシャファルニアという田舎町で過ごしています。そのときトルンにある伯父の伯爵家を訪ね、ピエルニキを食べて感激し、友人に宛てた手紙の中でも大絶賛しています。

"...gingerbread has made the greatest impression, or effect, on me. Surely, I have seen the whole city fortification, too (...), I saw the famous machine to move sand from one place to another (...), and the Gothic churches (...). I saw the leaning tower, the famous City Hall (...). All this, however, cannot compare to the gingerbread, yes, the gingerbread, one of which I sent to Warsaw…"

「トルンを訪れて実にいろいろな物を見た。町の要塞設備、砂を移動させる有名な機械、1231年に建立されたゴシック造りの教会、傾いた塔、有名な市庁舎など、町のあらゆる場所から、あらゆるディテールも含めてすべて見た中で、一番印象に残ったのはピエルニキだった。他の全てをもってしてもピエルニキには及ばない。」

さらにショパンは気に入ったピエルニキ を小包にして家族にも送ったとも書いています。

*コペルニクス

コペルニクスは、1473年にトルンで生まれました。(1473年~1543年)

父親は銅を商う裕福な商人で、ドイツ騎士団をトルンから追い出した誇り高き市民でした。コペルニクスはたいへんに優秀だったので、首都のクラクフ大学に進学し、その後イタリアに留学し博士号を取得。1505年祖国にもどって教会で働き、1512年からフラウエンブルクの聖堂参事職を勤めています。天文学者、カトリックの司祭やカノン、知事、長官、法学者、占星術師、医者として活躍しました。

主著 『天体の回転について』で地動説による星の軌道計算を行ない、後にケプラーやガリレオによってこの地動説が支持され、世界観の転換に大きく寄与したのです。その生家は旧市街の一角にあり、現在はコペルニクス博物館として公開されています。

ピエルニキ  近年クリスマス近くなるとKALDIの店頭に届いています。今年もきっと…探してみてくださいね。

森へ行きまし~ょう♪ ♫  娘さんアハ~ハ♪

鳥が鳴くアハハ あの森へ~

ポーランド民謡です。日本語の歌詞では狩人が娘を森に誘っていますが、原曲では娘が森に行って狩人に合うのです…  明るくて陽気な森の風景