ジェームズ1世とガイ・フォークス ・デイ

ジェームズ1世

子供のいないエリザベス1世は、ジェームズ6世を後継者に指名して亡くなります。ジェームズ6世はエリザベス1世の又従姉にあたり、反逆罪で処刑したスコットランド女王メアリー・シュワートの息子で、1567年 1歳にしてスコットランド王に即位していました。

16世紀以来イングランド王はアイルランド王位を兼ねていましたから、この指名によりイングランド、アイルランド、スコットランドが初めて同君連合として統一され、1603年ジェームズはイングランド王ジェームズ1世として3国の王を兼任することになったのです。

当時のイングランド議会は上院と下院に分かれており、国王の指示で議会が開かれることになっていました。しかしジェームズ1世はイギリスの政治を理解していないばかりか、国王の権利は神から授かったものであるとし、議会を無視して解散させるに至り、王妃アンと共に贅沢な宮廷生活におぼれ、財政が逼迫すると税金や関税をつり上げるなど国内の混乱を招きました。1606年頃のジェームズ ジョン・ド・クリッツ画

 

3国を治めるにあたり「一人の国王、一つの信仰、一つの国名、一つの議会…」を目指したジェームズの前に立ちはだかったのが宗教問題でした。

当時スコットランドではプロテスタント(ピューリタン)が優勢となり、アイルランドは伝統的にカトリック国で、イングランドではイギリス国教会とカトリックが対立するありさま…

ジェームズ1世の母メアリー・シュワートはカトリック信者でしたから、イングランドのカトリック信者達は擁護を期待して新王を迎えますが、ジェームズ1世はイングランド、アイルランド、スコットランドの全国民にイギリス国教会を信じることを強制し、新教(ピューリタン)とカトリック信仰を認めなかったのです。

国王暗殺 、議会爆破未遂事件

これに反発して1605年 ガイ・フォークス を実行犯とするスコットランドのカトリック信者らによる国王暗殺、議会爆破未遂事件が起きることになります。彼らは「国王のみならず、国会議員の多数を占める国教徒、そしてピューリタンをも皆殺しにして国会の機能を麻痺させ、カトリックが政権を掌握してイングランドにカトリックの王国を建設する」という遠大な目標を達成すべく、ウェストミンスター宮殿内にある議事堂上院議場の地下に大量の火薬を仕掛けて11月5日の国会開会式に備えました。しかしながら前日密告文書によって計画は露見し、地下室に潜んでいた実行責任者ガイ・フォークスは逮捕され、爆破クーデターは失敗に終わったのでした。

(上)ガイ・フォークスと仲間達 クリスペイン・デ・パッセにより同時代に描かれた版画 陰謀に加担した13人のうち8人が描かれ、フォークスは右から3番目の人物(下)捕らえられるガイ・フォークス 1823年ごろ、ヘンリー・ペロネット・ブリッグズ画

『ガイ・フォークスデイ』

 ロンドン市民は国王が無事であったことを祝い、かがり火を焚いたと伝わります。1650年代以降

11月5日には花火も打ち上げられるようになり、次第に『ガイ・フォークスデイ』が定着していったのです。

 

*事件の実行犯ガイ・フォークスの名「ガイ」は19世紀には 奇妙な服装をした人物を意味して使われていましたが、アメリカで軽蔑的な意味合いが失われ、男性一般を指す言葉になっていきました。『タフガイ』『ナイスガイ』など日本でも使われていますね。

この後もピューリタンとカトリック教徒に対する信仰の自由は与えられませんでしたから、ピューリタンは海外に逃れ、その一部はアメリカ大陸に移住します。その後ジェームズ1世の子チャールズ1世は専政政治を極めたことで議会と対立し、1640年の『ピューリタン革命』を招いています。