クリスマスプディング Christmas Pudding🎄
プディングpuddingとは、小麦粉や米、脂、肉、卵、牛乳、バター、果物などの材料を混ぜ合わせ、スパイスや調味料で味付けし、煮たり蒸したり焼いたりして作るイギリス料理の総称で、お粥スタイルのデザート『ライスプディング』、パンを再利用して作る『ブレッドアンドバタープディング』、血と脂肪入りのソーセージ『ブラックプディング』、ローストビーフに添えられる『ヨークシャー・プディング』、薄く焼いたスポンジ生地にジャムを塗ってから巻いて仕上げる『ローリーポーリープディング』などなど、メイン料理からデザートまで、その種類は多岐にわたるイギリスのソウルフードの1つです。
分かりやすく端的に説明してみようと試みるも、守備範囲?が広すぎて難しい… 長い年月の中で、使用できる食材の種類や量 そして調理の技術や設備の進歩、それに伴う味覚の変化も相まって出来上がった壮大なイングランドのプディングワールド
クリスマスプディング
中でもクリスマスプディングは1年に一度クリスマスディナーのセンターピースを飾るスペシャルな存在。真っ黒で植木鉢をひっくり返したような姿のそれは、お菓子のイメージからは遠いけれど、キリストの茨(イバラ)の冠を表すヒイラギを飾り、温めたブランデーを注いで火が灯されると、ゆらゆらとゆれる青い炎がプディングを覆い、ブランデーの芳しい香りが室内に立ち込めて、その厳かで幻想的な姿はクリスマスディナーのクライマックスを演出します。
材料となるのはレーズンやサルタナ、オレンジやレモンのピールなどの大量のドライフルーツ、パン粉にスエット(牛の腎臓周辺についている脂)、卵にりんご、ビールやブランデーなどのアルコール、ナツメグやシナモンなどのスパイス類などなど。これらの材料を全て混ぜ合わせて器に入れたら、4時間以上は当たり前!長くは10時間も蒸し上げます。これを最低1ヶ月は熟成させ、食べる直前にまた2時間ほど蒸しなおしていただきます。
昔はレーズン類を総称して「プラム」とよんでいたため、レーズン類が大量に使われることから「プラムプディング」と呼ばれ、王室のクリスマスディナーとして採用されたことからクリスマスプディングと呼ばれるようになったまさしくプディングの王様
本編ではプディングの歴史を追いながら、多彩に発展したプディングの中でもクリスマスプディングに注目しながらお話を進めたいと思います。
戴冠式のシチュー「girout ジルー」
ヨーロッパ大陸の西端に浮かぶブリテン島には紀元前7世紀から紀元前2世紀頃にかけて大陸からケルト人が渡来して居住範囲を広げ、その後ローマ帝国の支配を経て、5世紀にはゲルマン人の一派:アングロ・サクソン人が侵攻して勢力を拡大 7つの小国を興しました。829年エグバードがそれらを統一して『イングランド王国 Kingdom of England』とし、ここにはじめて統一国家が成立します。
1066年 対岸フランス王国のルマンディー公国 ギヨーム2世は自身のイングランドの王位継承を主張してドーバー海峡を超えてイングランド王国に上陸 。ヘースティングの戦いでアングロ=サクソン王朝ハロルドの軍を破り、ノルマン朝を開き、ウィリアム1世して即位します。
戴冠式は12月25日 に催され、そのクリスマスの会食には「girout ジルー」と呼ばれる肉と野菜のシチューが配膳されました。その起源は古代ケルトやローマ統治時代からある冬に食べるお粥で、配膳されたシチューのレシピは歴代イングランド王の戴冠式で振舞われた「ジルー」に準じたもの 歴代のレシピを採用することにより、ルマンディー公国出身のウィリアム1世の正当なイングランド国王を継承する戴冠であることを示す狙いがあったといわれています。
ウィリアム1世の興した王朝は現代まで血脈をつなぎ、以来王位継承の戴冠式の会食には「girout」がテーブルに登り、1910年のジョージ5世時代まで受け継がれるのですが、こうした王室の慣習を背景に「girout」は庶民のクリスマスを含めた祝祭日のメニューのお手本となって、時代を超えて姿を変えていきます。
15世紀に入ると材料に当時人気を集めた「プラム」:ドライフルーツやスパイスが加わり、さらにパン粉や卵黄で濃度をつけ、とろみのあるポタージュになっていきます。
1573年に『プラムポタージュ』として初めて記されたレシピによると、中身は牛や羊の肉を刻んだものがメインで、そこに玉ねぎ、ドライフルーツ、パン粉を混ぜ、ワインやスパイスで味付けされたものとされ、当時それは食事の最初に食べるお粥:ポタージュで、その材料はとても高価で、生の材料をあまり必要としないため、冬季の祝宴料理に使われることが多かったようです。そして材料のパン粉を増やし、卵も加えて濃度をつけたレシピは手近な材料で満腹感を得られるとして庶民にも取り入れられていきました。
500年かけてスィーツに変身
中世 このプラムポタージュと共通する材料を屠殺した動物の内臓に詰める狩猟シーズンのご馳走『プディング』が生まれます。
農村では秋が深まると牧草が不十分になるため家畜の一部を屠るのが季節の慣わしで、貴族達は10月から2月の間 狩りに興じました。こうして得た動物の肉を使って作られた15C世紀のプディングレシピ を3種類ご紹介しましょう。
1つ目は、 羊のレバーと心臓など臓物類を卵でつなぎ、スパイスを加えて羊の腸で包み、縛ってボイルする…プディングの先祖的レシピ
2つ目は、肉の赤みを中心にした詰め物を長い腸に入れてねじり、くびれをつけてゆでる…現在のソーセージの祖先的レシピ
3つ目は豚の血と一緒に多くの穀物を詰めて茹でる「ブラックプデイング」と呼ばれるもの
穀物も入れるため経済的で、庶民を中心に食べられるようになっていくレシピです。さらに血を加えずに レバーや赤身肉、たっぷりの穀物オーツ(カラス麦)、牛乳、卵、ドライフルーツなどを詰める「ホワイトプディング」も作られました。
1584年刊行の「A book of Cookrye」によると肉、卵、野菜、根菜などを牛の腸や羊の胃袋に詰めて加熱する料理全てを「プディング」と呼んでいたことがわかります。
*貴重な肉の保存性を高めるために スパイスや塩、砂糖やドライフルーツなどを混ぜて動物の腸や内臓に詰める調理法は腸詰のソーセージとして今に続き、スコットランドには羊の胃袋に肉や麦を詰めて調理する『ハギス』が伝統食として作り継がれています。
ボイルドプディング革命 …プディングクロスとスエットの登場
エリザベス1世(1588~1603)の時代に入るとプラムポタージュの材料から肉の比重が減り、薄味の肉汁、果汁、ぶどう酒、プラム、スパイス、パン粉を使ったレシピが増えていきます。
1615年 「The English Housewife」(Gervase Markhamガーバス マーカム著)にプラムポタージュとプディングを融合させたかのようなレシピが掲載されます。
それは塊:固形のプディングを作るために動物の内臓を使わず、『プディングクロス』を用いる画期的な方法で、「水で湿らせた布『プディングクロス』を広げ、真ん中に粉をふるい、そこに小麦粉と牛や羊の脂:スエット、砂糖、小麦粉、干しぶどうを混ぜた生地をおいたら、包んで巾着のように縛り、お湯を張った鍋に吊るして2~3時間茹でる。」というもの。
従来主役であった肉が姿を消し、材料が手に入るのが屠殺や狩猟直後に限られ、匂いのきつい内臓を使わずに、身近な材料でいつでも固形のプディングを作ることができるようになったのです。干しぶどうなどのプラム主体の甘い具を布で包んで茹でるプディングはもはやスィーツ デザートとして食されるレシピです。
中産階級の家庭も砂糖やスパイスを買えるようになっていく時代と重なり、プディングの種類は急速に増えていきました…詰め物はパン粉、米、穀類、牛乳やクリーム類、卵、スパイス、ドライフルーツ、砂糖など甘く身近にあるものが使われ、プラムディングやパンプデイング、ライスプディングの前身になるものが誕生します。
さらに、肉に代わって『スエット』が加えられるようになります。スエットは牛や羊の腎臓の周りについている脂で、他の部位の脂に比べて良質で匂いが少なく、融点も高いので扱いやすく、バターよりずっと安価でしたから、当時手軽に使える油脂として多用されており、プディングの生地をしっとりもっちりさせるのに一役買いました。
プディングクロスとスエットの登場あいまって、イギリスプディングは飛躍的に進化を遂げ、17世紀のレシピ本には、肉が除かれ、甘いデザートに進化したレシピが登場しています。
プディングが大好きな王様
1714年 神聖ローマ帝国(現ドイツ)ハノーファーの領主ゲオルク・ルートヴィヒは、母ゾフィーがイギリス王室ステュアート家の血脈だったことから、グレートブリテン王国の国王として迎えられ、54歳でイギリスに渡ってジョージ1世として即位します。英語を話さず、イギリスの食にも馴染まないジョージ1世でしたが、初のクリスマスにレーズン入りの濃厚な『プラムプデイング』を出されるとたいそう気に入り、翌年からクリスマスには『プラムプデイング』を用意するよう命じます。後年王についたあだ名は「プディング王」…これによりプラムプデイングはローストビーフとともに大英帝国のクリスマスレシピのシンボルとして定着し、貴族階級から中産階級へ広まります。
19C近くなると、材料は現在のレシピに近いものとなり、大砲の玉のようにまん丸なプディングが鍋に吊るされて蒸し煮されていました。 庶民の食卓にはスエットとパン粉を主体して作られ、お腹が満たされる『スエットプディング』が浸透していきます。
キッチンの熱いストーブから布袋に入った大きなプラム プディングを取り出す女性 R Seymour 1830-1839 by R Seymour 1830-1839(パブリック ドメイン)
皇室公認のクリスマスデザート
1840年 ヴィクトリア女王は神聖ローマ帝国ザクセン・コーブルク・ゴータ公国のアルバート(1819~1861)と結婚 仲睦まじい2人は次々に子供に恵まれ、クリスマス アルバート公は宮殿に母国同様もみの木を飾り、家族で祝いました。さらにプラム・プディングが大好物だったアルバート公はプラム・プディングをクリスマスディナーのデザートに所望し、ヴィクトリア女王はプラムプディングを正式なクリスマスデザートに採用します。 こうした女王一家のクリスマスの団欒スタイルは貴族から庶民へと広がり、『プラムプディング』は『クリスマスプディング』とも呼ばれるようになって、クリスマスディナーの定番デザートとなったのです。
1848年「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース The Illustrated London News」 が、クリスマス・ツリーを囲むヴィクトリア女王一家の様子を報じると、ロイヤル・ファミリーのライフスタイルに憧れを抱いていた中産階級の人々が、こぞってこの風習を取り入れ、クリスマス・ツリーはイギリスのクリスマスに定着し、幸せな家庭の象徴となっていきました。
*イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
英国で本格的な挿絵新聞として1843年に創刊された週刊新聞 当初は2万6千部、1863年には毎週約30万部を売り上げていたという大人気の新聞でした。
クリスマスの伝統を作ったといわれる小説『クリスマス・キャロル』
1843年 Charles Dickens,ディケンズが発表した小説「クリスマス・キャロル」には、当時プディングの生地が布に包んで茹でられていた様子や、クリスマスディナーのクライマックスに火を灯して運ばれる様子が描かれています。
19世紀のロンドン 貪欲で心が冷たく孤独な老人スクルージは嫌われ者。それでも平気で金儲けに精を出しています。あるクリスマスイブの夜中、7年前に亡くなった共同経営者のマーリーの亡霊を介して、過去、現在、未来の霊がスクルージの前に現れると、「過去のクリスマスの霊」はスクルージを子ども時代まで連れ戻します。
愛しい妹の姿や、スクルージが最初に職についたときにかわいがってくれた雇い主のフェジウィグ氏のクリスマスパーティーの光景が甦り、その時はスクルージもクリスマスを楽しむ若者でした。
次に現れた「現在のクリスマスの霊」はスクルージの事務所の書記、ボブの家の慎ましいながらもあたたかい食卓や甥の家の楽しいパーティーなど、たくさんの幸福のクリスマスを見せます。
最後の「未来のクリスマスの霊」には、一人の男が亡くなったことを知らされますが、この男は誰にもみとってもらえず、悲しむ人もなく孤独な末路をむかえます。スクルージはこの男が自分自身であることに気づき、生き方を劇的に変える決心をするのです。
「現在のクリスマスの霊」が見せたボブの家のクリスマスパーティーでは、奥さんのクラチット夫人が作るご馳走がたくさん描かれて、その中には、もちろん、クリスマス・プディングも出てきます。
そこにはこんな風に書かれています。
いやもう、大変な湯気です!プディングが銅の窯から出てきました。
洗濯日のような匂いです!プディングを包んだ布が匂うのです。
食堂とお菓子屋が隣あわせで、そのまた隣に洗濯屋があるような匂いです!それがプディングなのです!
またたくうちにクラチット夫人はー真っ赤な顔で、得意そうに、にこにこしながらプディングをかかげてもどってきました。 大砲の弾のようにまん丸で、まだら模様がついていて、しっかりと中身が詰まっていて、ほんのちょっぴり振りかけたブランディが、ゆらゆらと炎をあげていて、てっぺんにはクリスマスのヒイラギが突きさしてあるプディングです。
Charles Dickens 作 1843年 John Leech イラスト
大きなトレイに乗せられて運ばれてくるプラム・プディングの到着を迎える家族 (パブリック・ドメイン)
『プデイングベイスン』の登場
19世紀後半 陶器の器『プデイングベイスン』が使われるようになります。「生地をベイスンに入れて布で蓋をしたら、お湯をはった鍋に入れ、火にかけて蒸す」この方法で水分の多い生地も調理可能になりました。こうして作られるプディングは『スチームドプディング』と呼ばれ、現代まで続くクリスマスプディング作りの最もオーソドックスな製法となっています。
プデイングベイスンの登場により調理の可能性が広がるとともに、19世紀半ば以降一般家庭にオーブンが普及し、これにより「茹でる」「蒸す」に加え、「焼く」が可能になりました。
19世紀末にはベーキングパウダーが発明され、スポンジ状の生地を簡単に焼くこともできるようになります…。20世紀になり優れたオーブンが普及すると、トレイ(天パン)に生地を流し込んで焼く:ベイクドプディングが登場し、ベーキングパウダーが大量生産され、安価で手に入るようになると、トレイベイク人気は一気に広まります。
結束の象徴に
第一次世界大戦(1914~1918)の結果、イギリスは戦勝国となったものの、戦地となった国土は疲弊し、植民地でも反英独立運動が活発になってその統制力は弱まるばかり。
1926年 政府機関として帝国植民地で採れる産物や生産品の宣伝販売促進を目的とした「大英帝国販売委員会 Empire Marketing Board」が発足 翌年 委員会は王室長官に王室向けのクリスマス プディングレシピの提供を依頼します。国王と王妃の許可を得て王室シェフ、アンリ・セダール氏がオリジナルレシピを提供すると、大英帝国と当時の帝国領土で採れる材料だけを調達してプデイングが作られ、国王ジョージ5世に捧げられたのち、王室レシピは全国紙や人気女性誌に掲載されました。コピーも印刷され、無料で配布されると、リクエストがEMBオフィスに殺到 この企画は驚異的な成功を収めます。さらに大英帝国の結束を象徴すべく帝国領各地にも配られ…一体感を味わえるプディングは大英帝国全体の統一の象徴となったのです。
販売委員会の指示のもとで宣伝用につくられたポスター
王の戴冠式で供された肉のスープに、大航海時代侵攻領有を進めた世界中の植民地から運ばれた産物が加わって、ドライフルーツたっぷりの濃厚なお菓子となったクリスマスプディングは王室レシピのもと、大英帝国の歴史を反映し、帝国領の結束を象徴する存在となって、その文化的、政治的影響力は食卓をはるかに超えるに至りました。
巨大プディング
1929年 秋 アメリカから始まった世界恐慌はイギリスにも及び、経済危機に陥った英国全土で失業者があふれる状況の中1931年 ロンドンのアルバートホールで、前代未聞 10トンも重量のあるプディングが作られました。
それはウェールズ皇太子(後のエドワード8世)が後援していた人民病動物診療所主催のクリスマスマーケットの催しとして実現したもので、王室レシピに従って自治領と植民地の高等弁務官によって現地で調達された材料が提供され、制作にあたってはロンドン市長が最初の『かき混ぜ』を行い、その後に自治領の高等弁務官が続きました。その後はアルバート・ホールからビクトリア・ストリートにあるArmy&Navy Stores 陸軍&海軍ストアまで4頭立ての馬車で運ばれ、一般大衆もかき混ぜる機会を得たのです。その後焼き上げられた10トンの巨大プディングは11,208 個に分割され、全国の失業者に贈られ、大恐慌の憂鬱を和らげる一助となったのでした。
伝統は引き継がれ、現英王室メンバーの皆さまもクリスマスプディングが大好きだそうで、ありし日のエリザベル女王もご一緒の微笑ましい写真を見ることができます。それは2019年12月23日に公開されたもので、BBCは「クリスマスまであとわずか。ホリデームード高まるなか、ジョージ王子は、エリザベス女王とチャールズ皇太子、そして父ウィリアム王子のクリスマス・プディング作りのお手伝いをこなし、幼いながらも完成度の高い腕前を披露した。」として、バッキンガム宮殿の音楽室で、軍人や退役軍人、その家族に金銭的・社会的・精神的サポートを提供するために、慈善団体「ロイヤル・ブリティッシュ・リージョン The Royal British Legion」による「トゥギャザー・アット・クリスマス Together at Christmas」の立ち上げの一環として行われたプディング作りを報じた時のもの。
今に続くイギリス王朝の初代の戴冠式から1000年間 姿を変えつつも常に王室の食卓にあり続けたクリスマスプディングは、まさしく王室を象徴するスィーツ 世界中の植民地から運ばれた食材をギュ~と押し固めてできあがる重厚なその姿、濃厚な香りとお味はイングランドがたどった歴史を凝縮して味わせてくれる伝統菓子です。