ガレット・デ・ロワ Galette des Rois 公現祭:エピファニー l'Épiphanieの祝い菓子
キリスト教では12月25日の『クリスマス』はイエス・キリストがこの世に降誕されたことを祝う祝祭で、さらにその日から12日後の1月6日に東方の三博士(三賢王)les Rois mages が輝く星に導かれてベツレヘムを訪れ、救世主イエス・キリストの生誕を認め(公現し)祝福して黄金、乳香、没薬を捧げた『公現祭:エピファニー』が祝われて一連の祝祭が終わり、この日をもって、クリスマスツリーやリースといった飾りが外される… その一連がクリスマスです。
現代のフランスではエピファニーは1月6日あるいは、元旦後の最初の日曜日とされ、19世紀以降、王様の日 Jour des Roisとも呼ばれています。
ガレット・デ・ロワ Galette des Roisは 公現祭 エピファニー l'Épiphanieにフランスで食べられる祝い菓子で、フランス語で「galette」は円形のケーキ、「rois」は王様を表すことから、『王様のケーキ』エピファニーに関わる『三賢王のケーキ』です。
地方によって個性豊かなガレット・デ・ロワが存在しますが、大きく分けて2種類あり、フランス北部ではパイ生地にアーモンドクリームが入ったフランジパーヌ・ガレット(galette à la frangipane)、南部から南東部にかけてのプロヴァンス地方では、砂糖漬けのフルーツが入ったブリオッシュ風ガレット(galette à la frangipane)が食べられます。
(右)フランジパーヌ・ガレット(左)ブリオッシュ・デ・ロワ ↓
ルイ2世 エピファニーとそら豆ゲーム
14世紀初頭 ルイ2世(ブルボン公1337~1410年)が 日誌に「エピファニーの宴で、8歳の我が子を王にした。」と記述を残しており、宮廷でガレット・デ・ロワが切り分けられ、そら豆ゲームを楽しんでいたことがわかります。当時のガレット・デ・ロワは丸いシンプルなパンで、王侯貴族たちが囲むテーブルの上 ボンボンの隣におかれていました。
ゲームは古代ローマのサートゥルナーリアから続く伝統に沿って、パンにはそら豆が1つ入れられ、そら豆が当たった人は「王様」または「女王さま」になって振る舞い、その場を取り仕切るというルールでした。
ただし、ゲームがキリスト教の祝祭に取り込まれたことにより、人数分より一つ多く「神の分け前」または「聖母マリアの分け前」を残して切り分ける風習が加わりました。この一人前多くキープするしきたりは「貧しい人のため」というキリスト教的な考えや、予期せぬ来客のためとして伝統となり、20世紀まで続きます。
その後パリの宮廷でガレット・デ・ロワはバターをたっぷり使ったブリオッシュ生地となり、ドライフルーツが加えられると、『ガトー・デ・ロワ』あるいは『クーロンヌ・デ・ロワ』:「王の王冠」と呼ばれるようになります。これは現在も南フランス地域で作り継がれるガレット・デ・ロワの原型となっていきました。
ルイ14世の戴冠
フランス ブルボン王朝はルイ13世の時代から権力を王の名の下に集める中央集権国家を目指し、宰相リシュリューが手腕を発揮して、体制を確立していきました。
1643年 ルイ13世の逝去にともないルイ14世(1638~1715)は4歳で王位を継承 母アンヌ・ドートリッシュ Anne d’Autriche が摂政となり、マザランが宰相の座につきました。
ルイ14世10歳の時 内乱が勃発。首謀者は大貴族たちで、中央集権化によって特権が奪われ不満が鬱積していたところに三十年戦争の戦費を賄うため新たな税を課せられて爆発 パリの市民も巻き込み、反乱は激しさを増していきました。
パリで国王軍と反乱軍との戦闘が迫る1649年1月5日 エピファニーの夜 当時の居城パレ・ロワイヤルではエピファニーの祝宴が催されました。アンヌ王妃はルイ14世を伴って祝祭を楽しむと、「翌日のミサで分け与えるから…」と「聖母の分」として取り分けられたガレット・デ・ロワを持って、早々に部屋に戻り、深夜 マザランの手引きのもと、ルイ14世や廷臣を伴いパリの王宮を脱出し、郊外のサン=ジェルマン=アン=レー宮殿へと避難します。
突然の脱出でアンヌとルイは、寝具もなく折り畳み式の簡易ベッドで夜を明かし、他の従者たちは、藁に身を横たえて夜を過ごしたと伝わります。
内乱は宰相マザランの采配のもと国王政府の勝利に終わります。
直世統治 「朕は国家なり」
1661年 マザラン死去 21歳のルイ14世は宰相をおかず、自ら国を直接統治すると宣言し、戦争や内乱で荒廃した国の再建に乗り出します。経済を立て直すため国内産業の育成に力を注ぎ、多種多様な製品が外国へ輸出されて国を潤すと、人民の生活と国の財政が安定して若き王は名声を手に入れます。
その後父ルイ13世が豊かな自然を気に入ってベルサイユに建てた狩猟用の小さな城館を壮麗なバロック建築に拡張し、広大な庭園を造営しました。そして1682年宮廷がパリからヴェルサイユに移されます。
ヴェルサイユ宮殿でのルイ14世は毎日決まったスケジュールで生活を送り、昼と夜は貴族の前で食事をしたといいます。食卓は身に付ける衣装や宝飾品同様贅を尽くしたもので、特に夜10時からの晩餐は見事で、何種類ものサラダにスープ、メインディッシュとして様々な肉料理、卵料理、果物とお菓子が次々と恭しく給仕され、これを見た貴族たちは同様な料理を作るようお抱えの料理人に要求したため、調理技術の向上が進みました。
製菓技術では、宮廷内でアーモンドクリームやパイ生地菓子の製法技術が開発され、クレーム・フランジパーヌを用いたガレット・デ・ロワが登場すると、これをルイ14世や母アンヌ・ドートリッシュがたいそう好んだことから、貴族たちにも広がり、「パリ風」と呼ばれ、次第にフランス全土の主流になっていきました。
*クレーム・フランジパーヌ crème frangipane:アーモンドクリームとカスタードクリームを混ぜたもの
豆が当たった出席者を宴の王とするそら豆ゲームの風習は歴代王家にも受け継がれ、ルイ14世の宮廷でも行われた記録が残ります。そのルールでは、フェーヴを当てた者は王に願いを聞き入れてもらう権利を得ていたというのですが、ルイ14世はのちにこれを廃止しています。
これはさまざまな憶測を呼んでおり、ルイ14世は「王はいかなる時もただ1人 絶対的な存在である」ことを示した。また、1649年1月6日10歳の王が 貴族の反乱による暴動から逃れるためパリを脱出したのが公現祭当日であったためとも。
1789年のフランス革命時には、ロワ「王」をイメージする呼び名は禁止され、「ガレット・ド・ラ・リベルテ:自由のガレット」として売られたという歴史を経て、王政の崩壊により、職場を失った料理人たちは店を構えてお菓子の製造販売を始めたことから、宮廷のお菓子が市中に広がっていくことになりました。
こうしてガレット・デ・ロワは、地域によって異なる形、異なる呼び名のものが継承されてきたのですが、パリを含むフランス北部のものは、幾重にも折り込まれたパイ生地に、しっとりしたクレーム・フランジパーヌを詰めた『ガレット・デ・ロワ』「ガレット・デ・ロワ・ア・ラ・フランジパーヌ(La Galette des Rois à la frangipane)とも呼ばれるスタイルで、現在最も一般的なスタイルとなっています。
ガレット・デ・ロワの魅力の1つは表面の飾りの美しさ!
生地の表面に溶き卵を塗った後、小型のナイフやカービングナイフなどで切れ目模様『レイエ』を入れておくと、焼くことで切り込みが開き、ガレット・デ・ロワ特有の美しい飾り模様が浮かび上がります。レイエを入れる作業は非常に繊細 生地に薄く切り込みを入れ、中のクリームがはみ出さないように気を付けながら細かな飾りを仕上げていきます
伝統的なモチーフは大きく4種類。自然崇拝の意味合いをもち、それぞれに意味が込められていると伝わり、麦の穂は「豊穣」、太陽は「生命力」、ヒマワリ(格子柄)は「勝利」、月桂樹の葉は勝者に授けられる冠から「栄光」を意味します。
一方、ロワール川以南 プロヴァンス地方やラングドックエリアの南仏で根強く愛されているのは、ブリオッシュ生地で作る『ガトー・デ・ロワ Le Gâteau des Rois』または『ブリオッシュ・デ・ロワ』で王国を意味する「ロワイヨーム」と呼ばれます。
オレンジの花から抽出したエッセンスで香りづけした生地をドーナツ状:王冠の形に成形し、宝石に見立てたフルーツの砂糖漬けやドライフルーツなどを飾って焼いたブリオッシュに粉砂糖がまぶされたもので、南仏の人々はこのスタイルに誇りと愛着を持っています。気温が高くバターが溶けやすい南仏ではパイ生地よりブリオッシュ生地が選ばれたようです。南部のブリオッシュ風のガレット生地には、砂糖漬けされた果実が入っています。
オレンジの花から抽出したエッセンスで香りづけした生地をドーナツ状:王冠の形に成形し、宝石に見立てたフルーツの砂糖漬けやドライフルーツなどを飾って焼いたブリオッシュに粉砂糖がまぶされたもので、南仏の人々はこのスタイルに誇りと愛着を持っています。気温が高くバターが溶けやすい南仏ではパイ生地よりブリオッシュ生地が選ばれたようです。南部のブリオッシュ風のガレット生地には、砂糖漬けされた果実が入っています。
ボルドーでは形は同じブリオッシュ生地にセドラと呼ばれる大型のレモンの砂糖漬けの詰め物をし、コニャックで香りをつけた『トルティヨンTortillon』が作られています。形はねじっただけのシンプルな冠で、男爵冠を模しているといわれます。* トルティヨンTortillon:ねじったものという意味
東部スイスと接しているフランシュ・コンテ地方ではアーモンドクリームは使われません。シュー生地を丸く平らに成形し、卵黄を塗ってから模様をつけて焼く『ガレット・コントワーズ La Galette Comtoise 』
ノルマンディーにはパイ生地に特産のりんごや果実の蒸留酒、リキュールを加えた「ヌーロール(Les Nourolles)」など各地方に独自のガレット・デ・ロワがあります。いずれもフェーヴを入れる習慣は共通です。
大統領のガレット・デ・ロワ『Galette des rois de l'Élysée』
1月6日 フランスパン・製菓職人組合は直径1.2mの巨大ガレット・デ・ロワを3個大統領に贈ることを慣例としています。1個150人分で、小麦粉5kgを使用して作られるこのガレット・デ・ロワは、職人組合の会員から選ばれた腕利きの職人によって製作され、大統領官邸エリゼ宮で開催される新年会で大統領はじめ、招待客、パン・製菓職人組合の人たちが一堂に介して食べるのが恒例となっています。
1975年 ジルカールデスタン大統領の時代に始まった伝統で、歴代のフランス大統領に引き継がれています。なおこの巨大ガレットにはフェーヴが入っていません。フランスは共和制の国でロワRoi:王はいないから…
ソラマメ フェーヴ
フェーヴは、フランス語で「ソラマメ」のこと 現在は、中に入っている陶製の人形や小物をフェーヴと呼んでいますが、古代ローマ時代は乾燥したソラマメを中に入れていました。
春一番に芽を出してすくすくと伸びるそら豆は、生命の発生・成長そして豊穣を象徴する植物で、その実は保存が利きましたから、豊作や子孫繁栄を祈願するお祭りで捧げものとされ、結婚式などでも振る舞われました。
胎児のような形をしていることから「生命のシンボル」とする縁起物でもありました。
そんなソラマメをお菓子に隠し、切り分けて食べる風習は古くからから継承されたもので、古代ギリシャでは冬至の頃、来たる農耕期の作物の豊作を祈願してワインと豊穣の神:ディオニソスを祝う祭りが行われ、白や黒のそら豆を使ってくじ引きをしてその会における王を決めていたといわれています。
さらに古代ローマ時代の農耕神サトュルヌスを讃える祭りの宴会では甘くて丸いパンケーキサトゥーラ saturaが用意され、中にはそら豆が一粒入れられていました。そのパンケーキを切り分け、豆が入った一切れが当たった人は、たとえ奴隷であろうとその日は「王様の中の王様」と呼ばれ、王のように振舞うことが許されたのです。
この冬至の祭りに行われていたそら豆ゲームがローマ及びその属州となったヨーロッパ各地で継承され、キリスト教の公現祭と融合していったと考えられています。
中世のフランスでは、1月1日から6日にかけて「道化の祭り:Fête des Foux」というお祭りが行われており、これはローマ時代の「サトゥルヌス祭」の名残りといわれています。
一方、11世紀フランスのフランシュ・コンテ地方のザブンソンの教会では、教会参事会が次期参事選出にあたり、パンに金貨を隠して、当たりを決めた。これにヒントを得て公現祭の「ガレット・デ・ロワ」に「フェーヴ」を入れるようになった…という昔語りも残ります。
中世には金貨が入れられることもあったようですが、現在目にするような小さな人形がフェーブとして使われるようになったのは1870年代から。 最初の磁器のフェーヴは1874年にパリのパティシエがドイツのマイセンに発注して作られた幼子のイエス・キリストを模した人形でした。
今では、プレスチック製の人形などのフェーヴが主流になっています。
王冠
フェーヴと並んでガレット・デ・ロワに欠かせないのが王冠です。既に15世紀にはフランス王家の紋章でもある百合の花と三賢者の名前がついた金属製の王冠が飾られており、以来600年宮殿を出て、市民のお菓子となった今も変わらずガレットを飾り、ゲームの小道具として活躍しています。