イエス・キリストの生涯・復活そして新約聖書まで

エジプトで奴隷として過酷な日々を過ごしていたイスラエルの民が、モーセに先導されて脱出し、神が用意してくれた約束の地カナン(イスラエル)にたどり着き、建国を果たしてから1000年ほど時が流れた紀元前4~7年頃 イスラエル(ユダヤ)人の王国はローマ帝国の宗主権のもと、ヘロデ王によって統治されていました。

そんな中でイエスが生まれます。

イエスの誕生

イエスの母となるマリアは古代イスラエル王国のダビデ王の血を引く女性、父となるヨセフも同じくダビデ家の末裔で、2人はパレスチナ地方(現在のイスラエル)北ユダヤのナザレという町に住んでおり、婚約関係にありました。

ある日マリアは神の使いである天使ガブリエルから、神の子キリストを懐妊したという「受胎告知」を受け、ヨセフの元にも天使が現れ、神の子に「イエス」と名付けるようにと告げました。信仰深い2人はこのお告げを受け入れ、神に従ったのです。

時を同じくして、当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国の皇帝アウグストゥスがユダヤ全土の人口調査を行う命を下したため、ユダヤの全国民が祖先の生まれた土地へ行き、住民登録をすることになりました。

マリアとヨセフの祖先であるダビデ王は南ユダヤのベツレヘムが出身だったため、2人はベツレヘムへ向かい、その道中マリアは臨月を迎えてイエスが誕生します。神の子であるイエスは貧しい家畜小屋で生まれました。

ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。』(旧約聖書のミカ書節)

当時ユダヤ王国を統治していたヘロデ王は、イエスの誕生を東方の天文学者を通して耳にします。ヘロデ王は新たな「王」として生まれてきたイエスに脅威を感じ、その殺害を謀りますが、マリアとヨセフは神の使いからエジプトへ逃れるよう促され、ヘロデ王が亡くなるまでまでその地で暮らしたのでした。

ヘロデ王が亡くなるとマリアとヨセフはイエスを連れてユダヤ(イスラエル)に戻り、ナザレの町で暮らし始めました。

イエスの幼少期

ユダヤ人の男の子は13歳でバル・ミツバという成人式を迎えます。この儀式を迎えるため、マリアとヨセフは12歳になったイエスを連れてエルサレムに赴き、過越しの祭りと七週の祭り、仮庵の祭りを守ることでその備えをします。過越しの祭りでは巡礼者たちはエルサレムに行き、そこで最低2泊することが義務付けられていました。

イエスを連れたマリアとヨセフもエルサレムを巡礼して義務を果たした後、ナザレに帰るのですが、途中 イエスはエルサレムの神殿でユダヤ教の聖職者であるラビと語り合い、ラビたちはイエスの知恵と知識に驚いたのでした。

『イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。』(ルカの福音書2章52節)とあるように、少年イエスは家庭では両親から、会堂ではラビたちから旧約聖書や律法について学びながら成長していきました。

宣教

30歳のイエスは神の福音を伝えるため、ナザレの町を出て宣教への備えを始めます。

イエスはまず使徒と呼ばれる12人の弟子を選んで、寝食をともにしながら彼らを教え育てました。そしてユダヤ各地で、神の福音を伝えるために宣教の働きを始めます。「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」「右の頬を打つものには左の頬も向けなさい」など2000年後に生きる私たちの耳にも残ることばや、「主の祈り」の教えなどは、ユダヤ教の律法を守ることを大切としていた当時の人たちには大変新鮮で、その心を捉えていきます。

さらにイエスは、人々の病気を癒したり、死人を蘇らせたり、5つのパンと2匹の魚を5000人の群衆に分け与えるという奇跡もおこしました。

「そして、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹になった。」(ルカ9章:16 - 17節)

ジョヴァンニ・ランフランコ「パンと魚の奇跡」1620-23年 アイルランド国立美術館 ダブリン 

イエスの名前が知られるようになると、遠方からもその教えを聞こうと人々が集まるようになるのですが、ユダヤ教の祭司や、学者たちはこの事態に警戒心を強め、イエスは自らを「神の子」と詐称した罪と、エルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判した罪に問われて有罪判決を下されてしまいます。それでもイエスはひるむことなく宣教活動を続けます。

過越しの祭りのためにエルサレムに集まっていた群衆たちの前にイエスが現れると、人々は歓声をあげ、賛美の歌をもって迎えるのを見たユダヤ教の指導者たちはイエスを殺すことで一致  自分達は死刑執行の権限を持たないため、支配者であるローマ帝国へイエスを反逆者として渡そうとその居場所を探すのでした。

その頃イエスは、弟子たちと過越しの祭りを祝うための準備をしていました。イエスは12人の弟子とともに夕食をとり、パンを「自分の体」、ぶどう酒を「自分の血」として弟子達に与えます。これが現代の教会でも行われる聖餐式(せいさんしき)の始まりです。その場でイエスは自らが十字架に掛けられて死ぬこと しかしその後復活することを予言し、弟子達に自分が人間の全ての罪を背負って十字架で死ぬこと:贖い(あがない)を忘れないようにと教えました。

『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた「取れ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』

(マルコ14章 22節 ~ 24節 )

1495~1498年にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによってサンタ・マリア・デッレ・グラッツイエ修道院の食堂の壁に描かれた『最後の晩餐』↓

そしてその場でイエスは「12人の使徒の1人が自分を裏切る」さらに「使徒達が自分の苦難の際に逃げ去る」と予言 弟子たちは大いに動揺するのですが…

予言通り弟子の1人イスカリオテのユダがユダヤ教の祭司のもとを訪ね、銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をしてしまいます。最後の晩餐を終えたキリストがゲッセマネの園で神に祈りを捧げていると、そこへ裏切り者のユダに導かれた祭司や兵士たちがやって来て、イエスは縄をかけられ捕らえてしまいます。その場にいた他の弟子たちは恐怖のため逃げてしまいました。

磔刑(たっけい)

ローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトのもとに連行されたイエスは、「ユダヤの神を冒とくし、大勢の人々をまどわし反逆を企てる政治犯」として死刑に処される判決をうけ、十字架に両手首と両足首を釘でうちつけられる磔刑で亡くなりました。福音書にはイエスの死を確認するため、ある兵士が槍でイエスのわき腹を突き刺したという記述も見られます。

復活

当時のイスラエル人の風習では、人が亡くなると、その体を洗い、香油を塗り、没薬とアロエを混ぜ合わせたものと香料を添えて亜麻布で巻いて葬られていました。イエスの埋葬もそれに準じて進められますが、イエスは安息日が始まる数時間前に亡くなったため、充分に塗油できないまま葬られます。イエスが処刑されて3日目に、イエスに仕えていた女性たちが遺体に香料を塗って埋葬のしきたりを全うしようと墓に戻ると、入り口を塞いでいた大きな岩がどかされ、遺体が消えていたのです。うろたえ悲しむ女性たちの前に天使ガブリエルが現れて、イエスが復活したことを告げました。

そしてイエスは予言通り弟子たちの前に現れます。

復活したイエスは、40日間にわたって弟子たちの前に現われた後昇天しますが、イエスの出現は新約聖書の11箇所に記述がみられます。そのうちの4度目の出現は復活した日の午後エマオへという街へ向かう二人の弟子の前に現れています。

『イエスはクレオパともう一人の弟子がエマオに向かう途中彼らに近づいて、ともに語りながら歩いた。クレオパが答えた…「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか。」』(ルカによる福音書24章18節)

そして、食事の招待を受けて、感謝してパンを裂いた時、クレオパはそれがイエスだと気づくのですがが、その時イエスの姿が見えなくなった。

『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された』(使徒言行録 1章:3節)

昇天

こうして復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現われ、その後オリーブ山の東山麓にあるベタニヤという村から昇天します。

『こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。』(使徒言行録1章:9節)

イエス昇天の記述はルカ24章:50節、51節にもみられます。

『それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れていかれた。』

伝道と新約聖書

この体験から弟子たちはイエスの復活を確信し、エルサレムに帰っていきます。

『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された』(使徒言行録1章3節)

『そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。』(使徒言行録1章12節)

『彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。』(使徒言行録1章:13節)

ユダの裏切りによってイエスが捕らえられた時、恐怖で逃げ出した臆病な弟子たちが、イエスの復活を目の当たりにして彼らにとっては危険な町であるはずのエルサレム戻り、伝承ではヨハネ・マルコの母の家とされている「屋上の間」に集まります。

そこは最後の晩餐を過ごした部屋で、イエスは復活した40日間に2度姿を現した部屋でもあるのですが、以後この部屋は信者たちの本拠地になっていきます。

こうして弟子たちはイエスの復活を目の当たりにし、死をも恐れない宣教者となってイエスの教えを広めてゆく役割を担うことになっていきます。そんな彼らが書き残した手紙の一部が「新約聖書」の各書となり、イエスの働きやどのような影響力があったのかを伝えています。

何人もの手によって徐々に文書化されていった新約聖書は、イエス・キリストの言行と説教を伝える「福音書」、ペテロ、パウロなどの彼の弟子たちの活動を伝える「使徒行伝」、さらに「パウロの手紙」といわれる使徒たちの13の書簡から構成され、最後の「ヨハネの黙示録」ではローマ帝国の迫害下にある信者に対し、忍耐と希望を呼びかけ、終末での神の審判への期待を記している預言書「ヨハネの黙示録」が収められて現在の形に定まったのは379年のカルタゴ会議です。