北欧の歴史…バイキングとカルマル同盟

北欧諸国の始祖となった入植者はゲルマン民族の大移動で北に向かった人たちで、「北方の人」の意味をもつ『ノルマン人』と呼ばれます。

1世紀ごろには独自の文字「北欧ルーン文字」も生み出しましたが、自らの記録を文字で残さなかったため10世紀ぐらいまでの北欧の歴史は十分には解明されていません。

スカンディナビア半島やユトランド半島を原住地とした『ノルマン人』は、ノース人(ノルウェー)・デーン人(デンマーク)・スウェード人(スウェーデン)の3部族からなり、8~9世紀にかけてノルウェー、デンマーク、スウェーデンを建国しました。

氷河に削り取られた痩地は農業に向かず、狩猟・牧畜・漁業などで生計を立てるほか、早くから他地域との交易に乗り出すと、『バイキング』と呼ばれ、その活動は9世紀以降爆発的に拡大します。活動の内容は商業・植民(移住)・略奪・征服で、拡大の方向は3つの部族それぞれに異なりました。

                                                                                       by  https://hakotaiblog.com/viking-activities/

ノース人は、主としてアイルランドを中心とするブリテン諸島に向かい、9世紀後半には先住民のいないアイスランドに植民を開始。1000年頃には北アメリカの海岸に到達し、ニューファンドランド島に植民を試みています。

その沖合は世界最大の豪華客船「タイタニック号」が氷山にぶつかって沈没した場所…

調査の結果ニューファンドランド島には100人のバイキングが住んでいたとされ、1978年世界初の世界遺産「ランス・オ・メドー国定史跡」に指定されました。

 

 デーン人は8世紀末から9世紀前半にかけて、沿岸伝いに南下して北西フランスや東部イングランドに侵入

海岸の主要都市を襲い、続いて河川をさかのぼって内陸都市を略奪しました。西ヨーロッパの主要都市で、バイキングの脅威にさらされない都市はなかったといわれ、これらの略奪的活動と並んで定住も進んでゆきます

 

西フランク王国は大西洋にそそぐ大きな川が多いため、バイキングの襲来に悩まされ、小競り合いや攻防戦、莫大なお金を与えては引き揚げてもらうの繰り返し… 911年 セーヌ川を遡ってパリに迫った首長Rolloロロにシャルル3世は略奪行為をやめることを条件に、「北海岸の領地ノルマンディー地区(現在のノルマンディー地方東部)を与え、家臣に加える」ことを提案 サン=クレール=シュール=エプト条約を結びます。ロロは領土ノルマンディー公国を得て、シャルル3世の庶出の王女ジゼルを妻に迎えました。ここにノルマンディー公家の誕生です。

ノルマンディー公となったロロはキリスト教に改宗し、子孫はノルマンディー公の称号を受け継ぐこととなりました。その後ノルマンディー公国ではノルマン人の移住も進み、現地のフランス貴族との通婚などにより、次第にバイキング的な特質は失われていきました。人口増加にともない次男、三男以下の騎士が溢れるようになると、ノルマン騎士の多くは、傭兵として雇われ、ヨーロッパ各地に出かけるようになります。特にイスラム・東ローマ帝国・神聖ローマ帝国などの支配が入り乱れ、政情不安な南イタリアは絶好の移住先でした。

騎士の家系であったオートヴィル家(Maison de Hauteville,)の息子たちも南イタリアに移住し、傭兵として活躍します。 そのうちロベール・ギスカールは南イタリア、シチリア島を征服して1059年ローマ教皇より公爵に封じられ、1130年にはルッジェーロ2世がローマ教皇から王号を与えられたことにより南イタリア(ナポリ王国)とシチリア王国を合わせた『ノルマン・シチリア王国(両シチリア王国)』が成立しました。                     by https://www.y-history.net/appendix/wh0601-113.html

 

ロベール・ギスカールが南イタリア支配の拠点としてナポリ サンタルチア港の小島に作らせた要塞がCastel dell’Ovoカステル・デッローヴォ …『卵城』です。

築城にあたりノルマンの魔術師が城塞基礎の中に卵を埋め、「卵が割れるとき、城はおろか、ナポリにまで危機が迫るだろう」と呪文をかけたことが城の名前の由来と言われているそう…

城の屋上からは「ナポリを見てから死ね…」と言われたナポリの街並み、サンタルチア港、遠くにヴェスビオス火山まで絶景が見渡せます。このサンタルチア港はローマ時代にキリスト教の迫害を受け、殉教したサンタルチアにちなんで名付けられたもの。サンタルチアはナポリの船乗りたちの守護聖人とされ、漁師たちはサンタルチアに無事と豊漁を祈願してから船を出すといいます。

 

港町ナポリで舟を漕ぐ心地よさと、サンタルチア海岸の美しさは聖女ルチアの加護のたまものであるという感謝の気持ちをナポリ語で歌い上げる民謡サンタルチアがイタリア語に翻訳、編曲されると世界中に広まっていきました。それが北欧にも届き、12月6日に行われる聖ルシア祭で、暗闇に光をもたらす聖女ルシアを讃える歌詞に変えて歌われるようになるのは1800年代の半ばです…

 

ノルマン人はバイキングとして、北フランスのノルマンディーに国を建て、そこからさらに遠征して南イタリアやシチリアでも建国を果たしました。そしてたどり着いた南の地で古くから歌われた民謡サンタルチアは彼らが南下したルートを遡り、故郷の地で光をもたらす歌詞を与えられて歌われるようになった…その史実に時間の流れの中で点がいつしか線で結ばれて、気づかぬところでつながって循環している… 不思議な縁のネットワークをみる思いです。

地中海のノルマン王朝はシチリアのパレルモに首都をおき、200年にわたって王国を維持しました

ロロの5代後の子孫、ノルマンディー家の7代目ギョーム2世はイングランドを征服し、1066年イングランド王ウィリアム1世となっています。

スウェード人は9~11世紀 北西ロシアに進出し、スラヴ人やフィン人との交易や略奪 そしノブゴルド王国やキエフ公国を立てています。さらに水路網を巧みに使い、ドニエプル川やヴォルガ川を経由して遠く東ローマ帝国やアラブ・イスラーム世界に進出…コンスタンチノープル(現イスタンブール)を襲撃して東ローマ帝国の絹や香辛料、アラブ銀貨を獲得し、母国に持ち帰っています。 

各地に広がったバイキング達はその地に根付いてキリスト教に改宗し、同化 次第にバイキングとしてのアイデンティティーを失っていきます。本国でもキリスト教が普及すると、領土拡大に対する強い野心は失われ、11世紀半ばにはすっかり影をひそめてしまいました。

                    バイキング船博物館 The Viking Ship Museum

ノルウェー オスロ市にあるバイキング船博物館にはフィヨルド沿岸沿いで発掘されたバイキング船3隻が展示されています。船と一緒に生地や家具、生活道具、墓の埋蔵品なども見られ、オーク材で建造された船はいずれも910世紀初頭 人の埋葬に用いられたもので、1920世紀にかけて発掘された貴重なもの。…バイキングの時代は王や首長たちのお墓として古墳のように船ごと埋葬する習慣があったと考えられています。

 

                                                    by https://www.khm.uio.no/english/visit-us/viking-ship-museum/

スェード人・デーン人は南に進路をとり、地中海沿岸やアラブにまで進出したことで、北欧にはない様々なもの持ち帰っています。

アラブ商人がインドや東南アジアから運んだ香辛料もその1つ 中でもノルマンの人たちが好んだのが『カルダモン』でした。

スパイスを多用するクリスマスにおいて、イギリスやヨーロッパ諸国で香りの記憶として先ず揚がるのは『シナモン』でしょう。 それが、北欧でクリスマスの香りといえば『カルダモン』! 

12月ともなれば街中にカルダモンの香りが立ちこめます。

スウェーデンはシナモンロール発祥の地ですが、現地ではカルダモンロールもシナモンロールと同じくらい人気があり、粗びきにしたカルダモンを直接生地やフィリングに練りこんで、香りを楽しむのが本場流…

砂糖にシナモンを加えて作るシナモンシュガーに負けず劣らず、カルダモンシュガーも日常的に使われるのですから、そのカルダモンLOVEは半端有りません。

 

                                        カルマル同盟

11世紀に入りバイキング時代が終焉を迎えると、北欧の地では、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3王国が、内紛と相互抗争のうちに300年をかけて国家としての姿を確立していきます。バイキングとして遠征した海外移住地でノルマン人の心をとらえたキリスト教は、北欧の地にも広まり、まだひ弱だった王権の基盤固めに貢献し、利用されたのでした。

14世紀に入り、天候不良や黒死病の流行などで北欧の経済が衰退し、ハンザ同盟の影響力が強まって、各地にドイツ人の特権社会ができてくると、不満や反発が生じます。そのような状況を背景にマルグレーテ世 Margrete I が、デンマーク・ノルウェース・ウェーデンの3国を支配するために締結した3国同君連合がカルマル同盟です。

1353年 マルグレーテ(1353-1412)はデンマーク王の次女ヴァルデマー4世として生まれ、10歳でノルウェー王ホーコン6世に嫁ぎます。

1375年父ヴァルデマー4世が急逝 ヴァルデマー4世には息子がいなかったため、娘のノルウェー王妃マルグレーテがデンマークの実権を掌握

マルグレーテはデンマーク王国参事会を味方に就けて、5歳の息子をオーロフ2世としてデンマーク王位に即位させ、マルグレーテ自身は摂政となります。

1380年 夫ホーコン世が死去すると、オーロフ世はオーラヴ世としてノルウェーの王位も継承し、マルグレーテもノルウェーの摂政に就任

こうして、まずデンマークとノルウェーの同君連合「デンマーク・ノルウェー連合王国」が成立=マルグレーテは実質的な支配者としてデンマークとノルウェーに君臨します。

1387年オーロフ世が17歳で急逝すると、当時北欧では女性の王位継承は認められていませんでしたが、デンマークの参事会がマルグレーテをデンマーク王国全体の後見人に選出したため、女王の称号こそないものの、マルグレーテは実質的な女王となり、次期国王を選出する権限を得たのです。

1388年にはノルウェーもマルグレーテの後見人としての権限行使を承認したため、マルグレーテは後継者として姉インゲボーの娘マーリアの息子で、自身の又甥にあたるポメラニア公国に生まれたエーリヒを指名  エーリヒは先ずノルウェー王「エイリーク世」として認められます。

一方、スウェーデンでは1364年にオーロフ世(オーラヴ世)の祖父(ホーコン世の父)でノルウェー王兼スウェーデン王であったマグヌス・エーリクソンが追放され、ノルウェーに亡命するという事件が起こっていました。

スウェーデンの貴族は亡命した父の国王位を息子ホーコン6世が継ぐことを避けるため、北ドイツのメクレンブルク公子アルブレヒトを国王に選出したためマルグレーテの目指す3国同君連合実現に向けての最大のライバルはこのスウェーデン王アルブレクトとなります。これに対しデンマークは1389年にスウェーデンと戦って勝利、アルブレクトを捕虜とし、廃位させます。

1396年 マルグレーテはエーリヒをデンマーク王「エーリク7世」及びスウェーデン王「エリク13世」として即位させ、北欧3国は実質的に同君連合となりました。

翌1397年にはマルグレーテの主導で『カルマル同盟』が結ばれ、デンマークを中心として北欧3国が同じ王を戴く国家連合が成立します。

マルグレーテは、正式な王の地位に就くことはありませんでしたが、幼い王の摂政であり、1412年に死去するまで国の後見人として、北ヨーロッパを統合するカルマル同盟の実質的な支配者として采配をふるいました。

3国の国家連合はスウェーデンが独立する1523年まで続き、その後ノルウェーが独立を達成するのは1905年と、長い時を要したのです。