Licitar  リツィタル

鮮やかな赤色のボディーにカラフルで立体的なデコレーション…ハート、チェリー、赤ちゃん、鳥、キノコ、蹄鉄、馬、花輪…とさまざまな型で作られ、真ん中に小さな鏡がついたものも…『リツィタル』はクロアチアで400年以上作り継がれるジンジャークッキーです。

 by https://ladaprkic.wordpress.com/2018/01/01/licitars-hearts-made-of-honey/

その材料は他地域のジンジャークッキー同様小麦粉・スパイス・蜂蜜と、いたってシンプル!鮮やかな赤色の表面コーティングは蜜ろうやゼラチンを食用色素で色付けしたものが使われ、ラインやドット、花などの模様は卵白と砂糖からなるアイシングで描かれます。全て食用の材料から作られますから、伝統レシピにのっとって作られたリツィタルは、もちろん食べることができるのですが、最近はセラミックで作られたものもあるとか…

 観光地として注目を集めるクロアチア お土産選びの際は素材をよ〜く見極めて!?

古来クロアチアでは養蜂が盛んでした。中世には蜂蜜はもとより、キャンドルをはじめとする蜜ろう細工やワックスなどが交易品として輸出され、職人の名が記載された14世紀の書付も残っています。

そんな背景は「蜂蜜ケーキ」作りにも好都合で、ドイツやオーストリアでの呼称「Lebkuchenレープクーヘン」から、クロアチアでは「Licitarリツィタル」と呼ばれ、修道院で作り始められます。   ↓中世の面影を残すZagrebザグレブの街

リツィタル作りはクロアチア北部で盛んになり、首都ザグレブで、さらにザグレブから北に50Kmほどの街ビストリツァでは 『黒い聖母子像』が安置される『Marija bistrica churchマリア・ビストリツァ教会』を訪れる巡礼者達のために、職人が腕を振るいました。

リツィタルの材料は、小麦粉とスパイスと蜂蜜です。蜂蜜を扱う職人たちは、同時に蜂の巣から採れる蜜ろうを使ってキャンドルなどの蜜ろう細工やワックス製品も手がけましたし、蜂蜜酒『gvirc』も造りました。彼らは医薬に関わる仕事という意味合いを持つ「Medicariメディチャリ」と呼ばれ、ステータスと尊敬を得ていたということです。製品のレシピは厳重に門外不出とされ、家ごとに代々受け継がれました。

        木型レリーフからシュガーデコレーションへ

ハートモチーフのリツィタルは愛の告白アイテムとして人気を集めました。

それはビストリツァ教会を訪れる巡礼者にも好評で、『リツィタルハート』と呼ばれ、リツィタルの象徴的なモチーフとなっていきます。

16~17世紀 リツィタルやレープクーヘンは、モチーフを彫り出した木製の型に生地を押し当て、凹凸のレリーフ模様を付けて焼かれていましたが、17世紀に入り、サトウキビ糖の供給量が増えてくると、ケーキの表面を砂糖衣で飾りつけることが始まります。 生産性を重視する風潮も手伝って、レープクーヘンは木彫りの型でレリーフをつけるスタイルから、金属の抜き型で生地を型抜きし、それを焼いてから砂糖衣をかけたり、アイシングでデザインを描いて仕上げるスタイルへと変わっていきました。         by https://www.licitar.hr/en/about-licitars

さらに19世紀後半にはスイス人 ルドルフ リンツにより、滑らかで口溶けの良いチョコレートが作り出されます。

これを受け、スパイシーなレープクーヘンにチュコレートコーティングが施されると、新たなコラボレーションは大いに受けて、一気に広まり、定着していきました。 そして

…そのスタイルは今に健在です。

 ←チョコレートコーティングされた『レープクーヘン』 ドイツ ミュンヘンにて撮影

 

 

         独自路線を歩み、カラフルに進化したリツィタル

ビストリツァのリツィタルは他地域の進化とは一線を画し、独自路線を歩みました。

チョコレートのかわりに、蜜ろうやゼラチンに食用色素を加えて作る釉薬でケーキをコーティング!その上にカラフルなアイシングを使って立体的な装飾を施したものが考案されると、それはビストリツァの教会にやって来る巡礼者たちをはじめとして、首都ザグレブの街でも評判をよび、次第にクロアチア リツィタルの象徴的な存在になっていきます…

1900年代前半に撮影されたリツィタル売りの屋台です。すでにこの頃のリツィタルは鮮やかな赤いボディー(多分)に、カラフル模様が施され、真ん中には鏡も見えますね。                               by https://www.licitar.hr/en/about-licitars

鮮やかな赤いリツィタルはクリスマスツリーを飾り、カップルの名前を入れて結婚式の引き出物に、バレンタインデーやビジネスシーンのプレゼントとしても喜ばれ、復活祭にはエッグ型も登場します。

真ん中に小さな鏡を貼り付けたリツィタルハートは「私の心にはいつもあなたが映っています」のメッセージを込めて、気持ち「LOVE」を伝えたい時に…

1950年代 工芸品への関心が薄れた時期がありましたが、その後見直され、今日ビストリツァには職人が30人あまり…1882年に創業した最古の工房も家内制手工業の伝統を守っています。

*リツィタルは400年以上におよぶ歴史が評価され、2010年ユネスコ世界文化遺産に登録されています。

    リツィタルの製造工程は全て手作業! 5週間かけて、丁寧に…

《材料》小麦粉・スパイス・蜂蜜・デコレーション用の蜜ろう・ゼラチン・食用色素

《作り方》

⑴ 生地の材料を合わせ、数日間おいて熟成させます。

⑵ 生地を伸ばし、型を抜いたら…

⑶ 焼いて、紐を挟んで貼り合わせ、2週間おいて乾燥させます。

⑷ 着色し、再び2週間乾燥…

⑸ 鏡を貼り、デコレーションを施し、さらに1週間乾燥させて出来上がり!

by https://www.licitar.hr/en/about-licitars

            クロアチアとビストリッツァ

クロアチア最大の聖母マリアの聖地『マリヤ・ビストリッツァ』は、首都ザグレブから北に約50㎞。路線バスで1時間程の「ザゴリエ地方」に位置しています。

ローマ帝国の支配下にあった現在のクロアチアエリアは395年にローマ帝国が東西に分裂すると 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に継承されました。

その後 803年 カール大帝率いるフランク王国に占領されたことにより、ローマ・カトリックの影響を強く受け、その支配は数十年で終わったものの、イタリア、オーストリアなどカトリック国と隣接していることもあり、その後も住民の多くがカトリックを信仰して今に至っています。

ビストリッツァという場所の名前がハンガリーの開拓地として初めて文献に登場するのは1209年のこと。

その後ヴェネチア共和国との領地争いやモンゴル軍の侵略、破壊にあい、国土は荒廃

1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を占領し、東ローマ帝国が滅亡すると、オスマン軍はバルカン半島にも進出を始め、脅威が迫ります。

          ビストリッツァのブラック・マドンナ

そんな中の1449年 ビストリッツァでは地元の彫り師によって彫り上げられた木製の「聖母子像」を祀るため、ぶどう畑が広がるなだらかな丘ヴィンスキーヒルに、木造の礼拝堂が建てられました。地域で初めて建立された礼拝堂で、「聖母子像」は人々の心の拠り所として信仰を集めていきます。

1545年勢いを増すオスマントルコ軍の侵攻に、地元教区の司祭は聖母子像を守るべく、ヴィンスキーヒルの礼拝堂から3Kmほど離れたビストリッツァの教会に像を運び、地中に埋めて隠しました。司教がその場所を明かさず亡くなってしまったため、人々は探しますが、見つからないまま時が過ぎ…

1588年 夜の礼拝の後 聖歌隊員たちが地面に奇妙に光る場所があることに気づきます。そこから無傷の聖母子像が発掘され、祭壇に安置されると、それは次第に各地に伝わり、巡礼者が増えていきました。

1650年 再三続くオスマントルコの侵略に、教会の司祭は再び母子像を隠すことにし、主祭壇の後ろの壁に聖母の顔の部分だけ開口部を残して像を埋め込みました… 

その後も続くトルコの侵略、農民の反乱などにより、像の存在はすっかり忘れられ、いつしか巡礼も途絶えてしまいます。

1684年  87歳になる司教マーティン・ボルコビッチは、若い頃ビストリッツァまで素足で巡礼に行ったことを思い出し、司祭たちに聖母子像を探すよう命じます。これにより聖母子像は再び姿を現すこととなりました!

この奇跡の発見はザグレブ教区にとどまらず、クロアチア全土さらに

ハンガリー、オーストリアにも知れ渡り、ビストリッツァにはクロアチア国内外から多くの熱心な信者たちが巡礼に訪れるようになりました。

その後聖母子像は数々の奇跡を起こし、人々の厚い信仰を集めます。

by http://holycardlover.blogspot.com/2007/12/our-lady-of-bistrica.html

ビストリッツァはクロアチアにおけるマリア信仰の一大聖地となり、1879~1882年にかけてネオルネサンス様式で設計された新しい教会が建てられました。

教会を囲む回廊の壁には聖母子像が起こしたとされる、奇跡の場面を描いた絵画が飾られ、感謝の言葉が刻まれたプレートが壁を埋めています。

                                                                        by https://en.wikipedia.org/wiki/Marija_Bistrica

1923年 マリア・ビストリッツァ教会は教皇ピオ11世により『Minor basilicaマイナー バシリカ』の称号と権利を授与され、『聖堂』となりました。

巡礼は聖地への旅の過程において、人々が「神との繋がり」を認識し信仰を強いものにすると考えられていますが、ヴァチカンまで巡礼する余裕のないクロアチアのカトリック教徒にとって、国内の聖堂マリア・ビストリッツァ教会に巡礼することはヴァチカンへの巡礼と同等の意味合いを持つことになったのです。

1935年 聖母像の再発見から250年にあたるこの年 ローマ教皇の許可を得て、ザグレブの大司教が母子像に黄金の冠を戴冠します。

by https://4travel.jp/travelogue/10914124

王冠は古いクロアチアの王冠パターンで作られ、聖母は大きな冠、子供イエスは小さな冠が冠されました。この奉献の祝祭には3万もの巡礼者が訪れ、ザグレブの街は教会に黄金の聖杯を…、信者たちは黄金のロザリオを寄付して祝いました。

            ブラック・マドンナと共に…

ビストリッツァにはリツィタルを作る工房が集まり、巡礼者のお土産としてリツィタルが愛されてきました。                     by https://search.yahoo.co.jp/image/search?

by https://ladaprkic.wordpress.com/2018/01/01/licitars-hearts-made-of-honey/

豊かな森が広がるザゴリエ地方では、豊富な森林資源を利用して昔から各家庭で子供たちのために木のおもちゃが手作りされてきました。

そんな伝統的な木のおもちゃはユネスコ無形文化遺産にも指定されており、こちらも巡礼土産として人気の品となっています。

 by https://zagrebcrafts.hr/en/news/odrzavanje-starinskih-igracaka-na-zivotu-kroz-radionice-za-djecu/

 

             民族独立に寄り添って…

1500〜1600年代にかけて クロアチアは長く続いた対オスマン帝国との紛争に敗れ、ハプスブルク君主国(オーストリア)の支配下に入ることで滅亡を回避するものの、その後も近隣諸国の政治的紛争に翻弄され続け、1917年第一次世界大戦を契機に『ユーゴスラビア王国』が成立するとその一員となりました。

第二次世界大戦後にはスロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国からなる『ユーゴスラビア連邦人民共和国』が設立され、これにより『クロアチア共和国』が誕生します。

1991年、スロベニアとともにユーゴスラビアからの独立を宣言するも、ユーゴスラビア連邦軍がそれを認めないとして介入…激しい内戦が続きましたが、1995年ようやく独立を果たし、2013年にはEU加盟をはたしています。

内戦の最中 の1924年クロアチア出身の作曲家KrešimirBaranovićクレシミール ヴァラノビッチ はバレエ組曲『Gingerbread Heart リツィタル ハート』を発表

1956年には日本公演も実現しています。

by https://ladaprkic.wordpress.com/2018/01/01/licitars-hearts-made-of-honey/

今となれば懐かしい…レコードジャケット 2012年発行の切手にもリツィタルが…                                       by https://www.prestomusic.com/classical/works/255494

クロアチア南部の都市『ドブロブニク』は『魔女の宅急便』の舞台といわれている街です。今にもキキがホウキにのって飛んできそう…

by https://search.yahoo.co.jp/image/search?