ヘンリー8世と子供達 チュダー朝の歴史1

100年戦争

14世紀 フランス王国でシャルル4世が亡くなると、従兄弟のフィリップ6世が王位を継承しますが、亡くなったシャルル4世の甥にあたるイギリス王エドワード3世は、自分こそフランスの王位継承権があると主張し、戦線布告…1337年から1453年までの約100年間にわたる戦争が始まります。

当初イングランド軍は戦いを優位に運び、1360年パリを包囲して講和条約を結び、フランスの広大な地を占領しますが、ジャンヌダルクが現れると戦況は逆転…ボルドーが陥落してイギリスは敗れ、フランスの領土の多くを失いました。イングランド国内は凶作で飢饉となり、国民の生活は疲弊し、繰り返し襲うペストの流行も脅威となっていました。

薔薇戦争

100年戦争の敗北により当時の国王 ランカスター家のヘンリー6世の権威は失墜…ヨーク公リチャードが反撃にでて一旦はヨーク朝が成立するも、裏切りや反撃が続き、国内が混乱し、各地に戦乱が起こりました。この戦いはランカスター家の紋章が赤薔薇、ヨーク家の紋章が白薔薇だったことから薔薇戦争と呼ばれています。1485年フランスに亡命していたランカスター家のヘンリー・テューダーが帰国してリチャード3世を破り、30年におよぶ薔薇戦争は終結しました。

テューダーはヘンリー7世としてテューダー朝を立て、ヨーク家のエリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解 揺るぎない絶対王政を確立していきます。チューダー家の紋章はランカスター家の紋章の赤薔薇とヨーク家の紋章の白薔薇を合わせた形になっています。

(左)ヘンリー7世 作者不詳 1505年  (右)エリザベス・オブ・ヨーク

ヘンリー7世は内外の安定を図るために、まず娘マーガレットをスコットランド王ジェームス4世に嫁がせ、イングランドとスコットランドの和平を実現しました。(マーガレットの孫がメアリー・スチュアートです。)そして長男アーサーにスペイン王国から王女キャサリンを迎えます。当時のスペインはカスティーリャ王国のイサベル1世とアラゴン王国のフェルナンド2世両王の時代で、イスラムのグラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタを完成させて、カトリックの一等国になっていましたから、イギリスにとってスペインとの同盟はフランスを牽制する意味でも重要なことでした。しかし1501年 生来病弱だった長男アーサーは結婚式を挙げた数ヶ月後に急逝してしまいます。スペインとの絆の維持を願うヘンリー7世は、次男ヘンリーとキャサリンの結婚を画策し、キャサリンをスペインに帰国させずイギリスに留めました。

1509年 次男ヘンリー(1491-1547)は父ヘンリー7世の死によって、18歳でヘンリー8世として即位。2ヶ月後 生前の父の勧めに従い兄の妻であったスペイン王家出身のキャサリンを妃に迎えます。

ヘンリー8世は190cm近い巨漢で、しゃれ者で才気煥発、語学にも優れ、信仰心が篤い若者で、キャサリンは教養あり、美しく利発で国民にも慕われ、2人は仲睦まじい夫婦となり20年余りの結婚生活の間に7人の子を得るものの、早産や死産、早世が続き、無事成長したのは女児1人(後の女王メアリ1世)のみ。 王位を継承できる嫡子に恵まれませんでした。

父から譲られたチューダー朝を安定させるため男児の誕生を願っていたヘンリー8世は、トーマス・ウルジー枢機卿のハンプトンコート宮殿で開かれたパーティーでフランス大使の娘で、キャサリン后の侍女アン・ブーリンを見初めて夢中になると、妻との離婚を決意。1527年ヨーク大司教であったウルジーを派遣してローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの離婚を願い出たものの承認を拒否されてしまいます。

その後求婚を拒み続けるアンを6年求め続けた末に、正式結婚を条件に結ばれ、1533年1月密かに結婚式を強行し、4月にはカンタベリー大司教クランマーに前妻キャサリンと離婚とアンとの結婚を宣言させ、6月にアン=ブーリンを王妃として戴冠させます。9月には待望の子が生まれますが、ヘンリーの期待に添わず女の子(後のエリザベス1世)でした。

こうした経緯に対して翌1534年 ローマ教皇パウルス3世はヘンリー8世に破門を宣告

これに対し、ヘンリー8世は同年 イングランド国内において国王こそ宗教的政治的にも最高指導者であるとする法『国王至上法』を発布し、ローマ・カトリック教会から分離独立 国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とした『イギリス国教会』を成立させます。

さらにヘンリー8世は、1536, 1539年に、「修道院解散法」を発令して、従来の教会の土地財産を没収。その数は576僧院の及び、収入は10万8千ポンド。広大な所領を国王のものとし、この莫大な財産は、後の絶体王政にいたる財政的な基板となったのです。

放置され、朽ちた修道院の瓦礫が今なおイングランド各地に残り、当時の断行が偲ばれます。

(左)キャサリン・オブ・アラゴン(中央)ヘンリー8世(右)アン・ブーリン

*ヘンリー8世によってイギリスで『イギリス国教会』がうまれ、宗教改革が進むのと時を同じくして、大陸でも宗教改革の嵐が吹き荒れました。

1517年 ドイツ ヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターが「九五か条の意見書」を発表 信仰のよりどころを聖書にのみ求めてローマ教皇の免罪符販売とローマ・カトリック教会の腐敗と堕落を攻撃すると、多くの諸侯の支持を得えます。それに続き、スイスではカルヴァンが教会改革を始め、宗教改革はたちまち全ヨーロッパに波及して、多くの紛争をひき起こし、新たな宗派プロテスタントが生まれていきました。

その後世継ぎの男子を産めないアン・ブーリンに王の気持ちは冷め、アンを姦通罪で監禁し、ロンドン塔で処刑 アンの侍女だったジェーン・シーモアを3人目の妻として迎えます。1537年2人の間に待望の男子が誕生しました。後のエドワード6世です。しかし出産12日後ジェーン・シーモアは産褥熱が原因で死去。当時は衛生観念に乏しく、 出産は命がけでした。

さらに男子の出生を望むヘンリー8世にプロテスタントの王妃を推ようと当時の大臣トマス・クロムエルらの意向で選ばれたのは神聖ローマ帝国ベルク公国のクレーブ公女でした。しかし公女を迎えると王は見合い用の肖像画と本人が違うことなどに激怒し、半年後に離婚 この結婚を勧めた責任で宰相クロムウェルはロンドン塔で処刑されます。

公女は「国王の妹」の身分と年金・荘園・城などを与えられ、ドイツへは戻らず、42歳で亡くなるまで  王家の家族として、英国で安楽に暮らしました。

1540年 5人目の再婚相手はアン・ブーリンの従妹キャサリン・ハワードでした。  19歳の彼女は、痛風の痛みと若い頃フランスで感染したといわれる梅毒の症状 それに加え、1536年の馬上槍試合中にひどく足を痛め、完治が難しい足の潰瘍に悩まされ、歩くこともままならず、肥満体となった49才のヘンリー王にあきたらず、姦通罪で告発されると、不義密通罪として1542年ロンドン塔にて斬首刑に処せられます。 21歳でした。以後ハンプトンコート宮殿の回廊人呼んで「Haunted Gallery 幽霊回廊」は  キャサリンの亡霊が無実を訴えようと出没すると語り継がれているそう…。

1543年 6人目の妃キャサリン・パーは、2度の結婚で夫に先立たれ、3度目の結婚でした。 ヘンリーの最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの侍女だった母モードが、女子にも学問が必要であると考え、娘にラテン語、フランス語、宗教学、数学などの教育を施したこともあり、博識で知性高く、思いやり深い人柄の女性に育っていたキャサリンは1542年母の後を追って宮殿に入り、母が支えたヘンリー8世とキャサリン妃の娘メアリー王女の侍女になります。そこでキャサリンは王の3番目の妻で1537年に亡くなったジェーン・シーモアの兄トマス・シーモアに出会います。美男子でカリスマ性のあったシーモアにキャサリンは魅了され、二人の間は恋愛関係に発展していくのですが、ヘンリー8世がキャサリンに好意を抱き、求婚

当初キャサリンはそれをうまくかわしていましたが、やがて王と結婚することが神から与えられた使命なのではないかと考えるようになり、1543年に結婚します。のちに彼女はこの使命によって「自分自身の意思を完全にあきらめることになった」と書き残しており、決意の程を知ることができます。

王妃としての彼女は王の信頼も厚く、義理の2人の娘(=キャサリンの娘のメアリーと、エリザベス)を「王女」に復権させ、継子3人(メアリー・エリザベス・エドワード)を同じ城に呼び寄せ、語学を教え、たいそう慕われました。  

1544年ヘンリーが3カ月間のフランス遠征に出ると、王国の鍵を任されたキャサリンは、摂政として書類を整理し、顧問官らと協力して国の行政を監督 女王として国を統治する姿はヘンリーの2人の娘たちの将来の模範なったといわれます。

1547年ヘンリ8世が死去すると、その3ヶ月後に、王との結婚前の恋人トマス・シーモア郷 と4度目の結婚し、女児を出産しますが、8日目に死去。夫のトマスは1年後に、ヘンリ8世の跡を継いだメアリー女王がプロテスタントを弾圧する中、ロンドン塔で刑死しています。