Printen  プリンテン

プリンテンはドイツの西端にある街アーヘンAachenで継承されているスパイス菓子です。

現在のプリンテンは、小麦粉にスパイス、甜菜糖シロップ、 さらに膨張剤を加えて混ぜ、平らに伸ばした生地を長方形に切りそろえて焼き上げたシンプルな形のものがほとんどで、チョコレートコーティングを施し、アイシングやナッツなどで装飾したものも多く見られます。

スパイス菓子はドイツ各地で継承されていますが、アーヘンの『プリンテン』はニュルンベルクの『レープクーヘン』とならんで世界中にファンを持ち、クリスマス近くなると世界各地に向けて輸出される国際派。11月末 市庁舎前に街のシンボル『プリンテン坊や』が現れ、クリスマスに向けたカウントダウンが始まると、街はプリンテン一色に包まれて、ファンタスティックな世界が広がります。

中世から続く細い道のあちこちに立つ専門店のショーウィンドウにはカラフルにデコレートされたプリンテンが並んび、店内から漂うスパイシーで甘い香りも相まって、おとぎの世界に迷い込んだかのような錯覚さえおぼえ、道ゆく人の歩みもゆっくりと楽しげです。

その起源はローマ軍…

アーヘンの街で愛され、深く根を下ろしているプリンテンですが、600年ほど前にやってきて、進化と変身をとげながら今の姿になった歴史をもっています。

古代ローマ時代の紀元前58年 カエサル率いるローマ軍がライン川流域まで遠征し、当時ガリアと呼ばれた一帯を属州としました。この時ライ麦粉に蜂蜜とチーズなどを加えて作った『プラセンタケーキ Placenta cake」が伝わり、ローマ軍が去った後もガリア各地で『麦粉と蜂蜜のパン』が作り継がれます。

クックドディナンの誕生

ガリアの地からローマが去って800年ほど経た12世紀 ベルギー ディナンの街のパン職人が麦粉と蜂蜜を合わせて作った生地を木彫りの型に押して焼くと、レリーフが浮き出て美しく、人気を博しました。

 

そのパンは『クック ド ディナンCouque de Dinant』:「ディナンのケーキ」と呼ばれてディナンを代表する銘菓となりました。

*クックドディナンは現在も当時のままのレシピで焼かれ、老舗専門店のショーウインドーを飾っています。

その後ディナンは銅製品の加工が盛んになり、その製品はクオリティーの高さとフォルムの美しさで人気を得ます。「真鍮製品はディナン製に限る」と評され、街は工業都市へと発展 それは現代 ヨーロッパで真ちゅう製の家庭用品や室内装飾品を指して『ディナン ドリー』と表現されることからも伺い知ることができるのです。

14世紀半ば 鋳造技術をかわれてディナンから隣国ドイツのアーヘンに移り住んだ銅職人がいました。彼は『クックドディナン』も携えてやってきます。

良質な温泉が湧き出るアーヘンは、水を意味する「Ahhaアーハ」から名付けられたとされ、紀元前3世紀からローマ人が好んで保養地として利用したのち、西暦800年に西ヨーロッパを統一したフランク王国のカール大帝が都としたことで、カロリング朝ルネッサンスの舞台として文化が花開きます。そしてその後もカール大帝が建造した大聖堂で歴代神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われたことから、ドイツの歴史の中心的舞台として繁栄が続いていました。

↓(左)大聖堂(中)ドーム内モザイクの天井(右)戴冠式で使われた皇帝の玉座

クックドディナンがスパイス風味に…

アーヘンに伝えられたクックドディナンにパン職人がスパイスを加えて焼いてみると蜂蜜の風味とスパイスがマッチして、美味しく、香りよく、美しい!と好評を得ます。

同じドイツの南部バイエルン州の修道院で麦の粉に蜂蜜とスパイスを混ぜた生地焼き『ペファークーヘン』が生まれて半世紀 『ペファークーヘン』は修道院つながりで各地に広まっていましたから、アーヘンのパン職人はこのスパイス入りの蜂蜜パンにヒントを得てクックドディナンにもスパイスを加えてみたのかもしれません。

こうして誕生した新生アーヘン版クック・ド・ディナンは、スパイスの薬効が期待され、最初は修道院に併設された病院内で滋養食や薬として使われたり、薬局の棚に並べられ、修道士の保存食とされましたが、次第にお祭の屋台を飾るようにもなっていきました。

彫り師によって作られた木型を使うことで、焼き上がりに浮かび上がるレリーフの装飾性は芸術の域にまで達します。蜂蜜とスパイスがたっぷり入った生地は保存性にも優れていましたから、食品としてのみならず、インテリアとしても人気を集め、押し型スパイス菓子クック・ド・ディナンは全盛期を迎えたのでした。

蜂蜜から砂糖へ

 古来ヨーロッパの人たちが利用できる甘味料は蜂蜜に限られ、アラブの商人によってアジアから運ばれる砂糖(さとうきび糖:甘藷糖)は王族、貴族や教会関係者、富裕層しか口にできない貴重品でした。

そんな事情が大きく変化したのは1700年代 イギリスの植民地政策により、南米で「さとうきび」の生産が広がると、ヨーロッパの国々にも大量に輸入され、 砂糖の価格は徐々に下って、アーヘンで作られるスパイス菓子も「蜂蜜」に代わって「砂糖:さとうきび糖」が使われるようになりました。

膨張剤:鹿角塩も加わって…

さらにこの頃、製パン界で画期的な発見がありました。鹿など動物の角や皮からとれる白い粉末:炭酸アンモニウムをパンやお菓子の生地に混ぜて焼くと、生地が膨らむことが発見されたのです。その粉はHirschhorn-saiz 鹿角塩』と名付けられ、パンやお菓子を柔らかく、ふっくら焼き上げるのに欠かせなくなっていきます。

押し型から抜き型へ…

蜂蜜がさとうきび糖に代わり、さらに鹿角塩が加えられるようになると、焼き上がりはふっくら柔らかくなり、味や風味、食感にも変化をもたらしましたが、図らずも精巧な彫りの美しいレリーフ浮き出させることを困難にしてしまいました。蜂蜜と麦粉のみから作られる生地は熱を加えても硬く締まって形が崩れにくいため、細かい文字や繊細なレリーフが彫り込まれたままの姿で焼きあがるのですが、膨張剤:鹿角塩を使った生地はそうはいかなかったのです。

木型を使って押し型をとる作業は大量生産には向きません。そんな事情も重なって木型を使用する作業スタイルは次第に姿を消し、1800年代に入ると生地を伸ばし、抜き型を使って型抜きして焼くスタイルが主流になっていきました。

大陸封鎖令

1806年 『小麦粉』と『スパイス』と『さとうきび糖』から作られるのが定番になっていたアーヘンのスパイス菓子に一大事がおこります。 同年ナポレオンが敵国イギリスと、征服したヨーロッパの諸国との貿易を禁止するために出した『大陸封鎖令』により、それまでイギリスから入ってきていたアメリカ産の砂糖の入手が困難になってしまったのです。

甜菜糖:砂糖だいこんから砂糖を精製

古来使っていた『蜂蜜』は供給量に限りがありましたし、窮地に陥ったかにみえたヨーロッパの砂糖事情ですが、タイムリーにも救世主が現れます。1745年ドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフが飼料用の甜菜(ビート または 砂糖だいこん)から砂糖を分離することに成功し、1802年には弟子のフランツ・アシャールが甜菜を原料とする製糖工場を建設 工業化が始まったのです。

これにより砂糖不足に困惑していたヨーロッパ各地で甜菜糖業が一気に広まりました。甜菜(砂糖だいこん)は冷涼な気候のヨーロッパでよく育ちましたから、この発明によりヨーロッパの国々は輸入さとうきび糖に依存することなく、砂糖を自給自足できるようになっていったのです。

輸入のさとうきび糖がなければ、国産の甜菜糖を使ってみよう!そうして焼かれた『スパイス菓子』は、甜菜糖独特の風味が好評で、職人たちの工夫も加わり、個性豊かに進化をとげることができました。甜菜糖やシロップは次第に供給量が増えて価格も下がっていきました。結果『大陸封鎖令』が解かれた後もアーヘンの『スパイス菓子』には甜菜シロップが使われ続けたのでした。

命名『アーヘナー プリンテン』

1820年頃 木型で型押しして仕上げるスタイルが姿を消しつつある中で、その伝統を残したい思いからでしょうか…アーヘンのスパイス菓子は『Aschener Printen アーヘナー プリンテン 』の名称を与えられて街を代表する銘菓となりました。

「プリンテン」の由来は英語の「Print」と、オランダ語の「Prent」から…

レリーフ模様を失い、プレーンな四角形の姿になったプリンテンですが、チョコレートコーティングや、アイシンングで模様を付け、アザランやチョコチップさらにナッツやドライフルーツをトッピング、砂糖がけして白く仕上げるものも…と、バリエーションも豊富に華やかさを身につけて変身をとげていますので、ご覧ください。

プリンテン レシピ

専門店により1年中提供されているプリンテンですが、ホームメイド派も健在で、クリスマスを前にたくさんプリンテンを焼いて友人や親族にもおすそ分けして愉しむのです。

家庭では昔からのレシピに従い小麦粉、スパイス、鹿角塩(PottascheまたはHirschhorn-saiz )甜菜シロップから作られるのが一般的。使われるスパイスは シナモン、アニス、クローブ、カルダモン、コリアンダー、オールスパイス、ジンジャー等

* Pottasche:鹿角塩(炭酸カリウム)は小麦粉などの粉で作った生地を膨らませるためにドイツでは昔から使われてきたもので、焼く前の生地に独特の苦味を与えます。「その苦味も含めて、クリスマス菓子の味!」と、プリンテンには、その後発明された重曹やベーキングパウダーは使わず、Pottasche 鹿角塩にこだわる派が圧倒的と聞きました。

それに対し、基本の材料は変えず、各々個性を出すのが専門店

『Printenbackerei Kelein』で取材させていただいたこだわりの材料とレシピは以下の通りです。

『プリンテン 』生地の材料は時計回りに…

Zucker-sirup(ツッカー-ズィールップ)= 甜菜糖シロップ

Zimt (ツィムト)  = シナモン

Farin-zucker(ファリン-ツッカー)= 甜菜(サトウダイコン)から作られる粗製糖

Nelken(ネルケ) = クローブ

Koriander (コリアンダー)=コリアンダー

Anis(アニス)= アニス

Kandie - sucker (カンディス-ツッカー)=糖液を褐色になるまで加熱して作る キャラメル風味の氷砂糖    

Weizenmehl(ヴァイツェンメール)= 小麦粉 

作り方は

上記の材料に膨張剤としてNatron(ナトロン)= 重曹を加え、よく混ぜ合わせた生地を3日間おいて熟成させた後、 薄く伸ばし、型作って、焼き上げます。

*「3種類の甜菜糖(シロップ、粉末、顆粒)を使うのは、風味を豊かにするための工夫」とのこと プロのこだわりここに有り!です。

カール大帝とアーヘン

カール大帝はヨーロッパをはじめて統一した偉大な王として、トランプのハートに描かれている方。

孫たちがその領土を3分割して建国したのが現代のイタリア、フランス、ドイツの原形となっているのですから、まさしく『現代ヨーロッパの父』と呼べる王さまです。

786年 カール大帝が宮廷教会として建設を始めた大聖堂は8角形のドーム形で、熱心なキリスト教徒であった大帝が、キリスト教において「復活」を意味する数字『8』を重視したためと伝わります。

814年にカール大帝が没するとその亡骸は堂内に埋葬され、以後永きに渡り多くの巡礼者を集めてきました。

長年歴史の舞台であり続けた教会内部は荘厳な空気が漂い、モザイク仕上げの壁面は、息をのむほどの美しさです…

8角ドームの教会は増築により1000年をかけて装いを整え、さまざまな建築様式の要素が融合した傑作として1978年に誕生した『ユネスコ世界遺産』では世界初12件のうちの1つとして認定されています。

大聖堂西側に位置する宝物館では、入るとすぐ出迎えてくれる黄金に輝くカール大帝の胸像(1349年作)に目を見張り、比類の無い美術工芸品たちに息をのみ、酔いしれることができます。

宝石がちりばれられた黄金のロータルの十字架(14世紀) 大帝の右手の骨を納めた聖遺物入れ…  研磨などないまま使われている大きな宝石たちに時代のゆとりを感じながら、カール大帝あってのアーヘンの街 アーヘンの街あってのプリンテン…歴史が作り上げた甘くスパイシーな伝統菓子プリンテンはこれからもアーヘンの街のシンボル菓子として大切にされていくに違いないと確信したのでした。