ビストリッツァの巡礼菓子

クロアチア最大の聖母マリアの聖地『マリヤ・ビストリッツァ』は、ザグレブから北に約50㎞。路線バスで1時間程の「ザゴリエ地方」に位置しています。

ローマ帝国の支配下にあった現在のクロアチアエリアは395年にローマ帝国が東西に分裂すると 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に継承されました。

その後 803年 カール大帝率いるフランク王国に占領されたことにより、ローマ・カトリックの影響を強く受け、その支配は数十年で終わったものの、イタリア、オーストリアなどカトリック国と隣接していることもあり、その後も住民の多くがカトリックを信仰して今に至っています。

ビストリッツァという場所の名前がハンガリーの開拓地として初めて文献に登場するのは1209年のこと。その後ヴェネチア共和国との領地争いやモンゴル軍の侵略や破壊にあい、国土は荒廃 1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を占領し、東ローマ帝国が滅亡すると、オスマン軍はバルカン半島にも進出を始め、脅威が迫ります。

 聖母子像

そんな中の1449年 ビストリッツァでは地元の彫り師によって彫り上げられた木製の「聖母子像」を祀るため、ぶどう畑が広がるなだらかな丘ヴィンスキーヒルに、木造の礼拝堂が建てられました。地域で初めて建立された礼拝堂で、「聖母子像」は人々の心の拠り所として信仰を集めていきます。

1545年勢いを増すオスマントルコ軍の侵攻に、地元教区の司祭は聖母子像を守るべく、ヴィンスキーヒルの礼拝堂から3Kmほど離れたビストリッツァの教会に像を運び、地中に埋めて隠しました。司教がその場所を明かさず亡くなってしまったため、人々は探しますが、見つからないまま時が過ぎ…

1588年 夜の礼拝の後 聖歌隊員たちが地面に奇妙に光る場所があることに気づきます。そこから無傷の聖母子像が発掘され、祭壇に安置されると、それは次第に各地に伝わり、巡礼者が増えていきました。

1650年 再三続くオスマントルコの侵略に、教会の司祭は再び母子像を隠すことにし、主祭壇の後ろの壁に聖母の顔の部分だけ開口部を残して像を埋め込みました… 

その後も続くトルコの侵略、農民の反乱などにより、像の存在はすっかり忘れられ、いつしか巡礼も途絶えてしまいます。

1684年  87歳になる司教マーティン・ボルコビッチは、若い頃ビストリッツァまで素足で巡礼に行ったことを思い出し、司祭たちに聖母子像を探すよう命じます。これにより聖母子像は再び姿を現すこととなりました!

この奇跡の発見はザグレブ教区にとどまらず、クロアチア全土さらにハンガリー、オーストリアにも知れ渡り、ビストリッツァにはクロアチア国内外から多くの熱心な信者たちが巡礼に訪れるようになりました。その後聖母子像は数々の奇跡を起こし、人々の厚い信仰を集めます。

ビストリッツァはクロアチアにおけるマリア信仰の一大聖地となり、1879~1882年にかけてネオルネサンス様式で設計された新しい教会が建てられました。

教会を囲む回廊の壁には聖母子像が起こしたとされる奇跡の場面を描いた絵画が飾られ、感謝の言葉が刻まれたプレートが壁を埋めています。

1923年 マリア・ビストリッツァ教会は教皇ピオ11世により『Minor basilicaマイナー バシリカ』の称号と権利を授与され、『聖堂』となりました。

巡礼は聖地への旅の過程において、人々が「神との繋がり」を認識し信仰を強いものにすると考えられていますが、ヴァチカンまで巡礼する余裕のないクロアチアのカトリック教徒にとって、国内の聖堂マリア・ビストリッツァ教会に巡礼することはヴァチカンへの巡礼と同等の意味合いを持つことになったのです。

1935年 聖母子像の再発見から250年にあたるこの年 ローマ教皇の許可を得て、ザグレブの大司教が母子像に黄金の冠を戴冠します。

王冠は古いクロアチアの王冠パターンで作られ、聖母には大きな冠、子供イエスには小さな冠が冠されました。この奉献の祝祭には3万もの巡礼者が訪れ、ザグレブの街は教会に黄金の聖杯を、信者たちは黄金のロザリオを寄付して祝いました。

ブラック・マドンナと共に…

ビストリッツァには工房が集まり、巡礼者のお土産としてリツィタルを作り続けてきました。今日職人が30人あまり…1882年に創業した最古の工房も家内制手工業の伝統を守り、参道に屋台を並べて巡礼者を迎えています。

教会に向かうなだらかな坂の両脇に露店が並び、登りききった広場では記念写真用リツィタルがお出迎え…

私がマリヤ・ビストリッツァを訪れた5月1日はメーデーにあたり、クロアチアでは仕事も学校も商店もお休みになります。 当日は労働者のデモがあるわけではなく、戸外で春を楽しむ日…といった認識が一般的になっているとのこと。バスでビストリッツァに向かう道路脇を、トレッキングウエアにバックパックといった出立の老若男女のグループが、楽しげに歩く姿が途切れません。近隣からマリヤ・ビストリッツァに向かう人たちとのことで、信者のみなさんにとってメーデーはプチ巡礼に好都合?な日でもあるようでした。

11時からの礼拝を前に、教会内にも人が増え、さらに教会裏に設けられた戸外の席も信者の方たちで埋まっていきます。

帰りのバスで同乗した片道徒歩巡礼とミサを終えた方達はそろって爆睡 z z z 

心も体も健康なメーデーとなったようです。^^

豊かな森が広がるザゴリエ地方では、豊富な森林資源を利用して昔から各家庭で子供たちのために木のおもちゃが手作りされてきました。そんな伝統的な木のおもちゃはユネスコ無形文化遺産にも指定されており、こちらも巡礼土産として人気の品となっています。

リツィタルや蜜蝋キャンドルが並ぶ屋台の足もとにカラフルな木工玩具が並べられて…

リツィタルに共通するハートモチーフのデザインや明るい色彩に、クロアチアの人たちのお好みを見せてもらっているような気がして… 陽気っていいね〜^^

民族独立に寄り添って…

1500~1600年代にかけて クロアチアは長く続いた対オスマン帝国との紛争に敗れ、ハプスブルク君主国(オーストリア)の支配下に入ることで滅亡を回避するものの、その後も近隣諸国の政治的紛争に翻弄され続け、1917年第一次世界大戦を契機に『ユーゴスラビア王国』が成立するとその一員となりました。

第二次世界大戦後にはスロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国からなる『ユーゴスラビア連邦人民共和国』が設立され、これにより『クロアチア共和国』が誕生します。

1991年、スロベニアとともにユーゴスラビアからの独立を宣言するも、ユーゴスラビア連邦軍がそれを認めないとして介入…激しい内戦が続きましたが、1995年ようやく独立を果たし、2013年にはEU加盟をはたしています。

内戦の最中の1924年 クロアチア出身の作曲家KrešimirBaranovićクレシミール ヴァラノビッチ はバレエ組曲『Gingerbread Heart リツィタル ハート』を発表 1956年には日本公演も実現しています。

by https://ladaprkic.wordpress.com/2018/01/01/licitars-hearts-made-of-honey/

今となれば懐かしい…レコードジャケット 2012年発行の切手にもリツィタルが…   

 

 by https://www.prestomusic.com/classical/works/255494

クロアチア南部の都市『ドブロブニク』は『魔女の宅急便』の舞台といわれている街です。今にもキキがホウキにのって飛んできそう…