パンフォルテ  Panforte

パンフォルテ はイタリア トスカーナ州 シエナの街の伝統菓子で、その起源は11~12世紀頃といわれています。

小麦粉1に対して、砂糖:1、 蜂蜜:1~1. の割合に、スパイス(ナツメグ、シナモン、クローブ、胡椒、コリアンダー、メース等)を適宜加え、アーモンドやドライフルーツ(オレンジ・シトロン・メロン)もたっぷり混ぜ込んで生地を作ります。しばらく休ませてから成形し、ホスチアを敷いた型に入れて低温で焼き上げる… ねっちりとした食感にアーモンドの歯ごたえとスパイスの香りが加わり、リッチで食べ応えのあるお菓子です。

*ホスチア(ラテン語=hostia)ミサの際 聖体拝領に用いるオブラート状の薄いパン

ホスチア を使うのは、焼き釜(オーブン)で焼いているうちに生地が鉄板に張り付いてしまうのを防ぐための工夫です。現代は『クッキングシート』を使うこともできますが、「ホスチアの食感も含めてパンフォルテ 」と、昔ながらにホスチアが使われ、ホームメイド用には、パンフォルテサイズの大きなホスチアが販売されているほど…。写真のホスチアは生地からはみ出したホスチアが、焼きあがった本体を囲い込むように立ち上がって…こんな姿もホームメイドのご愛嬌。

シエナはローマと北ヨーロッパを結ぶ街道 『Via Francigena  ヴィア・フランチジェーナ』沿にある街です。交易の重要拠点として、またローマに向かう巡礼者の宿場町としても大いに栄えていましたから、スパイス類も比較的手に入りやすかったのです。当時大変貴重だった食材をたっぷり使うパンフォルテは修道院で考案され、当初はクリスマスなど特別な機会に聖職者や裕福な貴族が食する祝い菓子でした。

そしてスパイスの効能から身体によい、滋養に富んだ『薬』として修道院併設の病院で使われ、修道院薬局で販売されます。材料の流通量が増えると製造量も増えていきました。 

長期間保存が利いて、栄養価も高いことから巡礼の途中に立ち寄る旅人の携帯食やお土産としても喜ばれ、広く知られるシエナ名物になっていきますが、その製造販売は一貫して修道院が担い、収益は修道院経営の一助にあてられていました。

14世紀半ばシエナの街をペストが襲います。大打撃を受けた街はその後衰退し、修道院そしてパンフォルテもかつての勢いを失いますが、19世紀半ば、イタリアが統一されると街は息を吹き返し、民間でパンフォルテの製造販売が始まりました。

次々とパンフォルテ菓子工房ができますが、どの店も前身が薬局で、在庫にあったスパイスを製果材料に使っての転身でした。パンフォルテの風味はスパイスのブレンドにより個性が際立つところから、それをよく知った薬剤師によってレシピがおこされたのは、スパイス菓子独特の事情といえそうです。

シエナに残る『サン・ガルガーノ修道院』 13世紀 病院や薬局なども併設したトスカーナ最大のシトー派の修道院でした。しかし14世紀半ばになると飢饉やペストの流行によって、運営がままならなくなり、そのままに…  街の歴史が重なります。

Panforte』 Pan「パン」と Forte「強い」で、「強いパン」… 名前の由来は、栄養価の高いリッチな食材を固めたハイパワー食品だから…または 生地がギューと締まって硬いから…など定かではありません。

Pan Pepato』「胡椒のきいたパン」、『Pane Natalizio』「クリスマスのパン」』、『Pane Aromatico』「香りのあるパン」などと呼ばれていたのが、いつしか『パンフォルテ』に…長い歴史をもつお菓子ですから、そこはいろいろな変遷があるようです。

長い年月 材料と製法はほぼ変わることなく伝承されてきたパンフォルテですが、1879年シエナの街で開催される競馬レースのお祭り『パリオ』を観戦にみえるサヴォイア家のマルゲリータ王妃に捧げるため、新たなレシピが考案されます。

従来の材料からブラックペッパーとドライメロンを外し、透き通るように仕上げたオレンジやシトロンのピールを使い、バニラ風味のパウダーシュガーをたっぷり振って仕上げられたそれは優しく上品な風味で、『パンフォルテ・マルゲリータ』と名付けられ、王妃に献上されました。

この時から従来のものは『NERO ネーロ』「:黒」と呼び分けられるようになり、その後『Torta Fichi e Noci』(イチジクとクルミのケーキ)など新たなレシピも生まれて進化を続けています。

従来のものは直径10cmはゆうにあるのに対し、「小さなパンフォルテ」を意味するコンパクトサイズの『Panfortini パンフォルティーニ』も登場し、クリスマスに限らず食後のデザートとして、またトスカーナ名物の甘いワイン「ヴィンサント」に合わせたりと気軽に楽しむカジュアル化の様相です。

2014年 「定められた地域原産品を定められた製法で生産または加工、または調整されているものでなければならない」とするEUの地理的表示保護 PGIProtected Geographical Indication)を取得し、現在にいたっています。

 

                                     Siena シエナの歴史

395年 ローマ帝国は東西二つに分裂します。

西ローマ帝国は100年もせずに滅びてしまい、

東ローマ帝国は黒死病の大流行やモンゴル人の襲来などを乗り越えて1000年ほど続きました。

現イタリア地域は西ローマ帝国 東ゴート王国 北イタリア地域にランゴバルト王国再び西ローマ帝国と国が興っては周辺民族の侵略にあうなどして統一されることなく、各都市を中心とした分裂状態が続きました。

都市の中で特に有力だったのはローマ、ナポリ、 ミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアの5都市でしたが、中世のある時期までフィレンツェの強力なライバルだったのがシエナです。 シエナは北ヨーロッパとローマを結ぶ街道の中継基地として金融業が発展 その道がイギリスのカンタベリーからローマを結ぶ巡礼街道『フランチジェーナ』としても往来が盛んになったことから宿場町としても賑わい、同じく金融業によって勃興したフィレンツェとトスカーナ地方の覇権をめぐって衝突していきます。

     by https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&gdr=1&aq=-1&oq=&p=1494年イタリア地図

イタリア半島の覇権を巡って神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立すると、シエナは皇帝派、フィレンツェは教皇派の中心となり、1260年のモンタペルティの戦いで両軍は激突します。 シエナ軍2万、フィレンツェ軍7万と兵力差があったにも関わらずシエナ軍はフィレンツェ軍の『旗幟:しき』を奪うという大勝利を収めたのでした。

こうしてシエナはトスカーナの覇権を手中に収め、隣国フィレンツェを凌ぐほど繁栄を極める都市国家となりました。

13~14世紀には交易で繁栄していたジェノヴァ、ピサ、ヴェネチアなどとの金融取引で莫大な富を得て、フィレンツェのメディチ家と権力を争うほどの勢いに…時を同じくして芸術・文化が花開き、シエナ派と呼ばれる画家たちが活躍しました。

1348年黒死病がシエナを襲います。

シエナ市では、その周辺を含めた人口90,000人のうち、命を落としたのは半数とも80,000ともいわれています。

1472年には世界で初めての銀行『モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行』がシエナに誕生し、現在まで存続していますが、15世紀後半以降は貴族と市民との内部抗争が激化し政情は安定せず、1555年スペイン軍に占領され降伏… シエナ共和国は終焉を迎えました。

1559年 カトー・カンブレジ条約で、スペインはシエナをフィレンツェ公国(のちにトスカーナ大公国)に割譲し、以後20世紀のイタリア統一までシエナはトスカーナ大公国領となったのです。

                                       パリオ PALIO

パリオはシエナの街で年に2回、7月2日と8月16日に開催される伝統行事です。

舞台はシエナの中心にあるカンポ広場 石畳のこの広場にパリオ開催時だけ砂が敷き固められ、コースが作られます。

中世の衣装をまとった市民のパレードが行われ、ついで大きな空砲の音を合図に馬と旗手がコースに現れます。レースは一周300mの広場を疾走すること3周!

約1分で勝敗が決まります!!

約4万人の観客を動員し、その模様はイタリア全国に生中継される大イベント!

イタリア国内外のVIPも招待され観戦します。

*1879年観戦に訪れたマルゲリータ王妃に献上されたのが、『パンフォルテ・マルゲリータ』です。

その起源は1260年のモンタペルティの戦いでシエナがフィレンツェに勝利した際、聖母マリアに感謝の祈りを捧げるためにお祭りと馬のレースを行ったことに始まると言われています。

13世紀初頭から14世紀半ばにかけてのシエナ共和国の黄金時代には、パリオは8月15日の聖母マリア被昇天を厳かに締めくくるお祭りでした。

14世紀初頭には長距離乗馬レースとなり、シエナの町のいずれかの門をスタートし、大聖堂ドゥオーモがゴールでした。勝者には1260年のモンタペルティの戦いでフィレンツェ軍の旗を奪ったことに由来して高価な織物でできた旗が贈られました。

その旗をpalliumと呼んだため、祭りの名も『パリオ』になったということです。

この伝統は今でも変わらず、国内外のアーティストによってデザインされるシルクの旗織物が競馬の優勝賞品となっています。

シエナの中心街は、コントラーダと呼ばれる町内会のような機能を持つ17つの地区に分けられています。
13世紀頃シエナが一つの国家であった時代、軍隊を編成するために3分割した町内の線引きが基となり、その後、細分化、合併などがあり17世紀後半に現在の17の地区となりました。

そのコントラーダはそれぞれが独自のカラーと動物などのシンボルを持っています。
…シンボルにはヤマアラシ、キリン、鷲、ドラゴン、がちょう、カタツムリ、芋虫、雄羊、ユニコーン、キリン、亀、雌狼、フクロウ、塔、貝殻、波、豹、など様々なコントラーダがあり、これらはキリスト教が広がる以前の民間信仰に由来するものといわれています…

パリオはこのコントラーダ同士による地区対抗競馬レースです。

レースではその地区の色が騎手のユニフォームカラーとなり、地区出身者はこの時期地元カラーのスカーフを身につけます。

馬は鞍なしの裸馬で乗りこなすのが非常に難しく、落馬や転倒の事故が起こることもしばしば… 加えてレース中のジョッキー同士による鞭の打ち合いや押し倒しなど、まさに何でもあり! ジョッキーが落馬しても馬が1着でゴールすればその馬のコントラーダが優勝…と無秩序 豪快な思い切りの良さが痛快なレースです。

           イタリア王妃 マルゲリータ

1861年イタリアが統一され、イタリア王国が成立します。 

その7年後マルゲリータは17歳で従兄にあたるウンベルト1世と結婚しました。

ウンベルト1世はイタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の息子で、翌年 マルゲリータは後年イタリア国王となるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に恵まれています。夫のウンベルト1世は1900年に無政府主義者によって暗殺されますが、その後もマルゲリータ妃は芸術の発展や奉仕活動に取り組み、女性の識字率を高めるためにも尽力し、広く国民から敬愛されました。

『パンフォルテ』に加え、マルゲリータ妃に捧げられた名物をご紹介しましょう。

ピッツア『マルゲリータ』

赤いトマトと白いモッツアレラチーズ、緑のバジルをあしらったイタリア国旗のトリコロールが鮮やかに映えるピッツア『マルゲリータ』は、1889年 ウンベルト1世とマルゲリータ王妃がナポリをご訪問された際に 王妃マルゲリータに捧げるためピッツア職人が作り上げた新作で、その後イタリアピッツアの代表格になりました。

『マルゲルティーネ Margheritine

ピエモンテ州マッジョーレ湖西岸の町ストレーザ Stresaの焼き菓子です。

ほろほろと崩れやすい生地には、さらさらになるまで漉したゆで卵の黄身が使われ、中央につけられたくぼみには、焼き上がった後にふりかける粉砂糖がたっぷりと積もります。まったりとしたバターの風味とレモンの皮のさわやかな香りがただようこのお菓子は、王妃マルゲリータが避暑地として過ごしたストレーザの町で、菓子職人が作り出しました。

イタリアの国花『ディジー』は、イタリア語では『マルゲリータ』!まさに国家の華である王妃に捧げられた『マルゲルティーネ』 です。

マルゲルティーネ

《材料》  
無塩バター    100g
粉糖        50g
ゆで卵の黄身    1個分…ほぐしておきます。
強力粉       80g
片栗粉       80g

《作り方》

① 室温に戻したバターを練って粉糖を混ぜ合わせ、黄身と混ぜ合わます。
② ①に強力粉と片栗粉を合わせてふるい入れ混ぜ合わせましょう。
③ ②をラップなどに包んで冷蔵庫で1時間以上休ませます。
④ 生地を3~5mmに延ばして型で抜き、160℃のオーブンで約20分焼きます。
⑤ 冷めたら粉糖をふって召し上がれ…

映像の出典

https://www.club-t.com/special/abroad/italy/guide.htm

https://www.excite.co.jp/news/article/Tabizine_3471/

https://sekainorekisi.com/world_history/北と南のイタリア/

https://www.toccaasiena.com/パリオ-1/