ハンプトンコート宮殿とフルーツポマンダー
ヘンリー8世は権力を誇示するため、多くの城や宮殿、建造物を所有し、収集した絵画やタペストリー、家具・調度品などを飾りました。即位時、王室所有の宮殿やハンティングロッジ(狩猟用の屋敷)は12にすぎませんでしたが、没収したり、自ら建設して、晩年には55を数えるまでになっています。
そのうちの1つ ロンドン郊外 テムズ川添いに建つハンプトンコート宮殿Hampton Court Palaceはヘンリー8世お気に入りの宮殿でした。
12世紀頃につくられた建物を、1514年に大法官でありヨーク大司教であったトーマス・ウルジー Thomas Wolsey枢機卿が購入。7年間にかけて大規模な再建を行い、280の客室のある壮大で豪華な宮殿へと変身させます。さらにルネサンス円熟期のイタリアに留学した経験のあるウルジーは当時最先端だった幾何学的で左右対称のフォーマルガーデンの様式を取り入れた24万平方メートルの庭園も作り上げました。
ウルジー卿は司祭でしたが、ヘンリー8世に重用され、政治の運営を任されるまでになった人物で、ヘンリー8世の命によりローマ法王相手にキャサリン妃との離婚とアンとの結婚を認めるよう交渉するも、失敗に終わります。窮地に陥ったトマスは王へ宮殿も庭園も進呈することになるのですが、これはヘンリー8世がハンプトンコート宮殿の美しさに魅せられ、豪華さに嫉妬して、強要したともいわれています。
『イングランド王ヘンリー8世とトマス・ウルジー枢機卿 』1888年、ジョン・ギルバート作
宮殿を手に入れたヘンリー8世は増改築と改装を行い、 宮殿は同王の所有する建造物の中でも一、二を争う豪奢な居城となりました。王はそこで豪華な晩餐会を開き、贅を極めた宮廷生活を送り、芸術の名品を集めて、自らのステータスとしました。1530年代にはホテル、劇場、レジャー施設としても使用され、宮殿の最も華やかな時代を迎えています。
メインエントランスの左側にある「シーモアゲート」と呼ばれる入り口から入るとすぐに「ヘンリー8世のキッチン(Henry VIII’s Kitchens)」があります。
美食家で知られるヘンリー8世が毎夜開催する晩餐会にも対応できるよう宮殿内に作った当時最大級の厨房で、王やその家族、廷臣やゲストの分を含め、毎日1,000食もの食事が調理されていたそう。当時の服装をしたスタッフが中世のレシピに従って行う実演を見ることができます。…見学者も中世風マントを借りて、タイムスリップ 一体化して現場を味わうサービスも…
当時調理に使われる調味料は塩やハーブ、スパイスのみで、油で揚げる調理法はまだなく、煮る、焼く、蒸すが主流でした。キッチンの巨大な暖炉には人力で回して一度に大量の肉塊を焼くことがができる人力ロースターが設置され、パンやお菓子専用の炉もあります。
その炉で焼かれ、今なおレシピが継承されているヘンリー8世お気に入りのスィーツが『メイズ・オブ・オナー Maids of Honour 』。レモンで風味付けしたチーズクリームを詰めた小さなタルトです。「メイズ・オブ・オナー」とは王妃に仕える貴族の女性たちのこと。このお菓子には、誕生秘話が残されています。
「ある時ヘンリー8世は彼の2番目の妻アン・ブーリンとその侍女:メイズ・オブ・オナー達が、銀のお皿に盛られたタルトを食べているところに遭遇し、お菓子を手に取りご賞味。その味をたいへん気に入った彼はレシピを門外不出にするため鉄製の箱に入れて鍵をかけ、リッチモンド・パレス内に秘匿したうえ、このお菓子を考案した侍女を宮殿に幽閉して、王とその家族のためにお菓子を作らせた。」18世紀 門外不出だったそのレシピが開示され、作ることを許されたとするベーカリー「ニューエンズ Newens」が伝えるストーリーです。
また「アン・ブーリンがヘンリー8世の最初の妻キャサリンに仕える侍女だった時にこのお菓子を考案し、王が「メイズ・オブ・オナー」と名付けた」とのストーリーも。
レシピを受け継いだとする「メイズ・オブ・オナー」はロンドン南西部リッチモンドあるティー・ルーム「Newensニューエンズ」にて提供されています。元祖「メイズ・オブ・オナー」はアーモンドプードルが入った(であろう)サクッとしたパイ地のカップにレモン風味のチーズを入れて焼かれた直径6cmほどのタルト 優しく上品なお味も含めて、500年前を想いながら食べるタイムスリップ感も楽しいスィーツです。
ウルジー卿のフルーツポマンダー
オレンジやりんごにクローブをたっぷり突き刺したら、シナモンをクローブが隠れるほど振りかけて紙袋に入れるなど湿気のこもらない状態をキープすること数ヶ月 差し込まれたクローブが釘状の先端から果汁を吸い取り、取り囲んだシナモンも手伝って、みずみずしかったオレンジやりんごは脱水状態に。水分が抜け、香りが凝縮されて出来上がるのが『フルーツポマンダー』です。
スパイスの殺菌・抗菌効果を期待してキッチンの虫除けに、またリボンなどで装飾してインテリアとしても使われて、クリスマスツリーも飾ってきました。
この『フルーツポマンダー』を考案したのが、ヘンリー8世治世の初期に信任を得て内政・外交に辣腕を振るったトマス・ウルジー枢機卿です。
ポマンダーの歴史
中世 人々を最も恐怖に貶めたのはペストの流行でした。ペストは感染すると2~7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができて死に至るところから『黒死病』と呼ばれ、恐れられた感染症で、1347年ペストは中央アジアからクリムア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大
14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、当時のヨーロッパ人口の1/3から2/3にあたる2~3千万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定され、人々は病や死と隣り合わせの日常をおくっていました。
…14世紀 キリスト教の修道士が細菌の存在に気づき、仮説をたてたものの、それ以上の進捗はなく、17世紀顕微鏡の精度が高くなり、病原菌を確認するも、医学者による感染症への本格的な実験がはじまったのは19世紀になってからと、有効な対策が講じられるまでには、長い年月が必要でした。
ヨーロッパでは古代から19世紀まで疫病や伝染病を引き起こすのは「悪い空気」:「瘴気 しょうき」であると考えられ、瘴気は沼地や湿地などの汚れた水から発生し、霧状になって人里にやってきて、それを吸い込むと体調を崩す。対抗するためには香りがよく、抗菌力がある清浄の空気が有効と考えられ、考案されたのが『ポマンダー Pomander』でした。
…フランス語で「琥珀のりんご」を意味する pomme d'ambre から名付けられたそれは、
アンバーグリスを粉末にしてボール状に成形したものが原形で、13世紀半ばに初めて文学で言及されています。
しだいに貴族たちは「瘴気」が原因と考えられた感染症への対策や魔除けとして、金や銀などで作られた丸い装飾飾りの容器にハーブやスパイスを詰め、首やベルト、ガードルに吊り下げて携帯するようになり、装飾美術品の域に達するポマンダーも人気を集めました。 身を守るためのアイテムとして子供や女性だけでなく、男性も身につけました。…ハーブやスパイスの香りのもつ抗菌作用や免疫力を高める薬効により悪臭を改善し、感染症などの病気を予防 さらにハーブやスパイスには邪気を払う力が宿ると信じられていたため、魔除け効果も期待されていたのです。
(左)『ヤン・ゲリッツ・ファン・エグモンドの肖像』ヤコブ・コルネリス・ファン・オーストサネン(オランダ)作 / 1518年
(中央)『クラリッサ・ストロッツイの肖像画』ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 / 1542年
(右)ポマンダーを持つエリザベス女王(1533-1603年)作者不明)
『フルーツポマンダー』
ヘンリー8世統治のもと内政・外交に辣腕を振るったトマス・ウルジーは、権勢欲・金銭欲が強く財力と権力で名をとどろかす一方 教会で司祭も務め、貧しい平民を対象に無料の法律相談を実施し、あらゆる相談陳情に応じ、貧民窟にも出入りして祈りを捧げました。そうした中、瘴気から身を守るためフルーツポマンダーを考案し、ベルトに結びつけていたのです。
18世紀の科学者H.キャンベンディッシュHenry Cavendishの著書によると、オレンジをくりぬいた中にエッセンスビネガーをしめした海綿、またはリンゴをくりぬいた中に乳香(フランキンセンス)を詰めたものだったとされ、これが後に庶民に広がる中で柑橘類やりんごにクローブを刺した形になっていきました。
ヘンリー8世とジンジャーブレッド
麦粉にスパイスと蜂蜜や砂糖などの甘味料を加えた生地を焼いて作るケーキやビスケット ドイツでは『ペッパークーヘン』・『レープクーヘン』、フランスでは『パン・デピス』、と各地で呼び分けられていますが、イギリスでは『ジンジャークッキー』もしくは『ジンジャーブレッド』と、「ジンジャー」が特化され、スーパーの棚には『ジンジャーワイン』に始まりジンジャーフレーバーの食品の大きこと! イギリス人の「ジンジャー」好きを垣間見ることができるのですが、一説にはそのきっかけを作ったのはヘンリー8世とか…
繰り返すペストの流行に悩まされていた当時、主治医から、「日頃生姜を摂取している人は、ペストに罹りにくく、生還できる可能性が高い」と聞いた王が「健康促進、疫病対策のために生姜の摂取を心がけるべし」とのおふれを公布したことで 国民に生姜の薬理効果が浸透。 さらに16世紀半ばイギリスは侵攻して領有した西インド諸島のジャマイカ島に生姜やサトウキビの苗を移植 栽培は順調に進み、乾燥生姜や砂糖がイギリス本国にむけて大量に輸送されるようになると、17世紀に入る頃にはジンジャーブレッドは庶民の生活に浸透し、教会での日曜礼拝や縁日などに屋台が出て人気を集めるようになったのです。
こうしてジンジャーが浸透したイギリスからアメリカに渡った移民達が、母国を想い、ヘンリー8世に準えた人型に成型したジンジャークッキーを焼くと、それが逆輸入されてイギリス国内にもジンジャー坊やのクッキーが浸透 400年かけて循環したジンジャー物語はいまや世界にフィールドを広げ、時空を超えた旅を続けています。