華麗なるチョコレートの歴史1…5000年続いた飲み物時代…

チョコレートは5000年以上の昔から人類の食の歴史とともに、〝飲み物〟として利用された歴史があります。固形になり、思わず宝石!?と見紛うように美しい装飾を施された現在の姿に至ったのは近年のこと。

長い長い飲み物としての歴史を経て、180年ほど前 ついに〝固形〟になり、さらにミルクチョコレートが開発され、滑らかさを増しながら急速に進化して今に至っているのです。 人類が味や食感といった美味しさを追求し、さらにその姿を芸術品の域に届くまでに高めてきたチョコレート愛の熱量を想うと感服しきり…先達の創意工夫と試行錯誤に思いを馳せながら、感謝して味わせていただこう!の気持ちが湧いてきます。

神さまの贈り物

チョコレートの原料となるカカオは、中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とし、紀元前2000年頃にはメキシコ南部や中央アメリカ一体:メソアメリカ地域で栽培が始められていたようです。最初はカカオの実の中にある果肉や繊維のみ食べていましたが、種子は炒ると香ばしく、皮がむきやすくなることが分かると食用にされ、紀元前のオルメカ文明・イサパ文明の遺跡からは、炭化したカカオ豆が出土しています。

炒ったカカオはすりつぶし、とうもろこしの粉なども加えて水で溶いてドリンクにされました。

そんな昔を今に伝えてくれるのが壁画や壺に描かれた食のシーン

「左」は古代メキシコの南東部、現在のグアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えたマヤ文明の都市カラクムルから見つかった壁画で、カカオドリンクを作って飲む様子が描かれています。

「右」は550年から830年頃 壺に描かれた宮殿場面で、王が鉢に入った泡立つカカオドリンクに手を差し伸べています。王座の下に置かれた器にはトウモロコシ粉・ひき肉・トウガラシなどをトウモロコシの皮に包んで蒸して作るメキシコの伝統料理タマーレが盛られて、食べ合わせていたのでしょうか… 

その後アステカ族がマヤなどの種族を滅ぼし、彼らのカカオ農園を受け継いでいくのですが、

14世紀 現在のメキシコシティで繁栄したアステカ王国では、カカオは「神秘的な力をもつ」として、儀式での献上品、薬、貢物、交易品、さらには通貨としても用いられたとの記録が残っています。

メソアメリカの人々の抱くカカオの神秘性はその神話に端を発していました。アステカ神話の神『ケツァルコアトル』は人類に火をもたらした太陽神であり、平和と農耕の神として最も崇められていた神さま そのケツァルコアトルが神々の食べ物であった「カカオ」と「トウモロコシ」を人類に与えたと信じられていたのです。

この時代に至ってもカカオは大変に高価でしたから、そのドリンクは特権階級の人々のみが独占する強精や栄養強化の目的で飲まれる飲み物 皇帝モクテスマ2世はカカオ飲料を媚薬として、黄金のカップに注いで1日に50杯も飲んでいたと伝えられています。

そのカカオドリンクの作り方といいますと、

① カカオの種子を焙煎し、外皮を取り、石の板「メターテ」と棒「マノ」ですりつぶしてペースト状にする。

② 水を加えて混ぜ、加熱 表面にカカオの脂肪分が浮いてきたら、脂肪分からアクを取り除き、再びよく混ぜる。

③ そうしてできた液体を勢い良く泡立て、液体の上に弾力のある泡の層を作る。または肩の高さに持ち上げた容器から床におかれた容器に注ぐ作業を繰り返して泡立てる。

*泡立てるのは口に含んだときにザラつきを和らげるため欠かせない作業でした…

④ こうしてできたカカオドリンクに、トウガラシ、ベニノキ、バニラ、はちみつ、オールスパイス、小麦粉やトウモロコシ粉を加え、冷やした後、ひょうたんの外皮で作ったお椀に注いで飲むのがオーソドックスなスタイル。

…材料や作り方からすると、小麦粉やトウモロコシ粉はカカオの脂肪分と水分を混ぜる乳化剤として加えられ、野生カカオのもつ苦みと酸味にトウガラシの強い辛みとはちみつの甘みが加わり、とろみと泡がカカオ粒子のザラザラ感を包み込むパンチの効いたエナジードリンク …ですね。

西洋人カカオに出会う 

1502年に出航した4度目の航海でコロンブスはホンジュラス沖合いに浮かぶグアナハ島で、カヌーに乗ったマヤ人と遭遇し、その時の様子を「運搬していた交易品の中に、木の根、穀物、発酵している飲み物と一緒にアーモンドがあった。マヤ人はこのアーモンドを落とすと、自分の目を落としたかのように一生懸命探して拾っていた」と報告しています。この「アーモンド」は「カカオ」であったと推察されていますが、この時コロンブスはカカオに興味を持たず、本国に持ち帰ることはありませんでした。

チョコレートの価値に気づいた最初のヨーロッパ人は、スペイン人 エルナン・コルテス(1485~1547)でした。コルテスはスペイン王の命を受け、征服を目的にアステカ帝国に乗り込んだのですが、彼が上陸したのは1519年

この年はアステカの人々が特別に待ち望んでいた年にあたっていました。それは彼らの神話に由来します。

アステカでは古来 神に生け贄をささげる人身御供が行われていました。ケツァルコアトル神が人々に人身御供をやめさせようと説くと、それを好ましく思わない破壊と戦争の神テスカトリポカは酒に呪いをかけ、ケツァルコアトルに飲ませたのです。すると彼は錯乱し、自分の妹と契りを結んでしまうのでした。その結果ケツァルコアトルはアステカの地を追われることとなるのですが、その地を去るとき「私は、一の葦(あし)の年に戻ってくる」と約束の言葉を残します。この年こそ西暦に当てはめると1519年…となり、人々が神の再帰を信じ、待ち望んでいた年だったのです。

その上白い膚に白ひげのコルテスの風貌は伝説のケツァルコアトル神の姿に重なってしまった…そんな偶然が重なって、コルテスはモンテスマ王2世以下アステカの人々にケツァルコアトルの化身:救世主として迎えられます。

こうして大饗宴の最後に賓客コルテスは蜂蜜とバニラを混ぜて泡立てた冷たいカカオドリンク『ショコアトル』を黄金のカップで供され、試飲する機会を得たのでした。

その後コルテスは当時のスペイン王 カルロス1世(1500~1558・神聖ローマ皇帝、ドイツ皇帝)に「神々の飲み物ショコアトル(XOCOATL)は勇壮果敢な兵士をつくり、カップ一杯飲めば一日食物を取らずにすむ」と書き送っています。

アステカの人々が再来した神として迎えたコルテスは行く先々で容赦ない大量虐殺を繰り返し、反撃虚しく1521年アステカは滅亡します。長年繁栄をきわめたアステカ文明は崇めていたカカオの神と信じて迎え入れたスペイン人のために、たった2年で滅亡してしまう…切なく冷酷な展開がまっていました。

こうして中南米に植民地を広げていったスペイン王室は疲労回復・滋養強壮や精神高揚などカカオの効用を認め、ドミニカ共和国、ハイチ、トリニダード・トバゴ、エクアドル、アフリカの西海岸の小島フェルナンド・ポに至るまでカカオ農園を広げ、輸入したカカオを独占品として国外への持ち出しを禁じました。

16世紀の後半に入ると、繁栄を競っていた隣国ポルトガルの衰退が始まります。

1580年ポルトガル王セバスティアンがモロッコ遠征に失敗して戦死し、王朝が断絶するとスペインのフェリペ2世は王位継承権を主張して軍隊を派遣し併合

これによってスペインはイベリア半島全域を支配し、ポルトガルの海外領土も手に入れたので、その領土は全世界に及び、名実ともに『太陽の沈まぬ国』となったのです。

そうして得たポルトガルでもフェリペ2世は宮廷にココア担当官を設け、カカオの門外不出態勢を死守しようとしたのでした。

こうしてスペインに持ち込まれて100年 ショコアトルは王侯貴族の厨房や修道院でレシピに工夫が加えられ、砂糖、オレンジエッセンス、ローズウォーター、シナモン、バニラ、アーモンド、ピスタチオ、ジャコウ、ナツメグ、クローブ、オールスパイス、アニスシード等が混ぜられ、温かく甘い飲み物に姿を変えて王族や貴族を虜にし続けていました。しかし硬いガードにほころびが生じる時がやってきます。 *ヨーロッパ各国に伝えられたカカオのその後はこちらをどうぞ…

味や風味の改良に加え、ドリンクの作り方にも工夫が凝らされ、スペインではモリニーヨという攪拌棒と、ショコラティエールと呼ばれるチョコレートポットが考案されます。

この絵は18世紀前半のもので、 スペインのバレンシアでのチョコレートパーティーの様子です。

モリニーヨの棒を両手で挟み、左右に回転させながら上下させ、ポットの中のチョコレートを泡立て、カップに分けて提供している様子が描かれています。大勢のチョコレート職人が忙しそうに働いている様子がうかがえますね。それを裏付けるように「王室の晩餐会では、泡立ったショコラティエールが50個以上も運び込まれた」との状況説明が残されて、チョコレートが主役のパーティーの華やぎが伝わります…。