パンの誕生とパンの旅

農耕を始める以前の人類は、野原で見つけた野生の麦や雑穀類を石と石の間にはさんで砕いてから焼いて食べていました。その後土器が生みだしされると、粗挽きにした麦を煮てお粥にして食べるようになります。

約1万年前高度なメソポタミア文明を築いたチグリス・ユーフラテス川流域では、パンの原料となる小麦の栽培が広く行われるようになっていましたが、収穫された小麦の食べ方といえば、粒のまま炒ったり、お粥にしたりと古来の調理法が変わらず続いていたのです。 画像:「世界史の窓」より

無発酵の平焼きパンの誕生

紀元前6000~4000年頃になると、小麦を粉にして水で溶き、薄くのばして焼くようになり、無発酵の生地を焼いたこの薄いピザ状の食べ物こそがパンの元祖とされるもので、『アジム』と呼ばれました。

初期の無発酵パンは粉を水で練って、薄くのし、熱した平たい石に貼り付け、その上に石を熱した時の澳(おき)や灰をかけて焼いたのです。このような焼き方では、もちろんふっくら膨らむとはいきませんが、

小麦粉から作られる無発酵パンは、焼くと多少膨らみ、焼き上がったばかりは柔らかく食べられます。現代でも北インドの家庭で主食として食べられている『チャパティ』や、中東や北アフリカで広くみられる『ピタブレッド』などはその無発酵の平焼きパンです。

 

チャパティ in ニューデリー

ここでしばし寄り道して、インド デリーで見聞そして食した『チャパティー』事情をご披露しようと思います。

インド ニューデリーのB&Bで、ウッタル・プラディーシュ州出身の少年が焼いてくれたほうれん草入りの『チャパティ』は、立ち上る麦の香りが食欲をそそり、カリッと香ばしく、とても美味しくて、無発酵の平焼きパンが長く愛され続ける理由を納得させてくれる食品でした。

その作り方は、

① 全粒粉に水と塩少々を加えて捏ね、生地を作ったら30分ほど休ませ、馴染ませます。

② 生地を薄く延ばし、鉄板の上に乗せて加熱開始…

③ 直火にかざしてぱたぱた…

④ ぷっくり空洞ができて焼き上がるのが上手な焼き上がりです!

 

チャパティ in オールドデリー

かつて栄えたムガール帝国の王宮に続くオールドデリーの沿道は地元民、地方から買い物に訪れた人たちと観光客で溢れかえって賑やかなこと!

その道脇には、タンドリー窯で『チャパティー』を焼く屋台が並び、すでに1つずつ丸められた生地を両手のひらを使ってパタパタと伸ばしたら、タンドリー窯の壁に貼り付けて、窯の底に置かれた炭火から立ち上る熱気で焼き上げています。

『ナン』は脱穀し、精白した小麦粉に水と塩少々(…ヨーグルトやギー、卵、ハーブなどを加えることも)を加えて生地を作り、そのまま放置 その間に空気中の野生酵母菌が入って自然発酵するのを待ち、その発酵生地をしずく型などに成形して、焼き上げます。精白小麦粉を使う『ナン』をインドの日常で見かけることは少なく、右はレストランで供されたものです。

エジプトのパン

紀元前6000年頃 肥沃なデルタ地帯を持つエジプトでは、メソポタミアから伝わった小麦や大麦が盛んに栽培されて、無発酵パンやお粥にして食べられていました。

前1410年頃 テーベ、ケンアメンの墓壁画 無発酵の平焼きパンの製造現場 ↓

偶然生まれた発酵パン

ある時、小麦粉に水を加えてこねたまま放置されていたパンの生地が大きく膨らんでいるのを職人が見つけます。試しにこれを焼いてみると、これまでよりも柔らかく、膨らんだパンが焼きあがりました。空気中の酵母菌がパン生地にとりついて発酵が進んでいたのです。これが発酵パンの誕生だといわれ、古代エジプト人は偶然にも発酵パンを知ることとなったのです。

それから発酵パンの進化発展はビール作りと密接に関係しながら急速に進みます。

紀元前4000年頃の古代エジプトでは、無発酵パン同様メソポタミアから製法が伝えられた『ビール』も日常的に作られていましたが、それは麦芽の無発酵パンを利用して作るものでした。

麦芽パンで作るビールの製法は、

① 大麦(麦芽)を粉にし、水を加えてこね、パン生地を作る。

② 無発酵のパンを焼く

③ パンをほぐしてお湯を加え、ふるいにかけて濾し、麦汁を作る。

…この麦汁には麦芽の糖分がたっぷり含まれていますが、さらに糖度を増すためナツメヤシの果汁などを加えることもあったようです。

④ 麦汁を壺に詰め、蓋をせずに放置しておと、→空気中にある野生酵母が麦汁に入って 麦汁中の糖分を食べ、アルコールと二酸化炭素(炭酸)そしてさまざまなフレーバーをもつ副産物を生み出します。これが発酵です。

発酵が進むと酵母が二酸化炭素とともにぷくぷくと泡になって表面に浮いてきます。これは発酵が十分進んだサインで、壺の中には麦芽の香りを持った少し酸味のあるビール(アルコール度数:3度)が出来上がっているのです。

ある時この『上面に浮いてきた泡=酵母』を焼く前のパン生地に混ぜて焼いてみよう…と思いついた職人がいたのでしょう。試してみると、生地が大きく膨らんだのです。

パン生地にビール酵母を加えると、発酵が進み、ふっくら柔らかい発酵パンが焼ける!この発見によって、野生酵母がパン生地に取り付く偶然を待つのではなく、人為的にパン生地を発酵させることができるようになりました。パン作りは計画管理できる作業になり飛躍発展へと繋がります。

パンを焼く方法も、最初は砂漠の強い太陽熱を利用していましたが、次第に色々な窯が工夫されます。

大麦粉のパンより、小麦粉の方が大きく膨らみ、柔らかいこともわかってきました。こうして紀元前2500年前頃のエジプトには200種類ものパンがあったと記録されています。

その後 紀元前6~5世紀には、ギリシャの歴史家ヘカタイオスが「エジプト人はパン食い人で、キュレスティスというパンを食べ、大麦から作る飲み物を飲んでいる。」と書き残すほどパンと大麦ビールはエジプト人の食卓に浸透していたのです。

パンとビール、スイーツも…古代エジプトの食生活

(上)ラムセス3世(在位紀元前1186年頃ー1155年頃)の墓に描かれたパン焼きの図 

上段左から、足で生地をこねる人、壺の下にパン生地と液を運ぶ二人、そして、パン生地をこねる人、渦巻きの形の菓子を棒の先に付け、蓋付きの鍋で揚げる二人、円筒形のパン窯「タヌール」でパンを焼く人、その上には壺に果物を入れて煮る人が描かれ、人々の上には出来上がった渦巻の菓子、牛形のパン、三角パン、丸パンがあります。

南アジアを原産とするサトウキビ糖はまだ運ばれていませんが、お菓子作りは盛んでした。 牛乳やハチミツは手に入りましたし、イチジクやブドウ、ザクロも豊富にとれましたから、生で食べたり煮たりして、デザートやおやつに楽しまれていたのです。

ギリシャからローマへ

エジプト人は「パンを食べる人」と呼ばれるほどパンを好みましたが、小麦粉、または他の粉を混合して作る発酵パンの製法は長らく極秘にされ、その製法を国外に伝えることは禁じられていました。

それを国外に伝えたのは、エジプトに捕虜として捕らわれていたヘブライ人だと言われています。ヘブライ人は窯に工夫を加え、半連続的に大量のパンを製造する方法を開発します。これが直焼きパン製法の始まりで、それはギリシャにも伝わり、ギリシャでパンの製造が盛んになると、古代ローマもこのパン製造技術を欲しがって、ギリシァのパン職人を自国に拉致することもあったと伝えられています。

ギリシァから発酵パン作りを習得したローマ人たちは、彼らなりの工夫やアレンジも加えて、パン作りを飛躍的に発展させ、工場生産も始まりました。その後ローマ帝国がヨーロッパ各地を征服していくなかでパン食文化も広く伝播されていきます。それまで主に生産されていた大麦にかわり、より口当たりよく美味しい小麦の生産が盛んになり、小麦の育ちにくいドイツ、ロシア、北欧では、ライ麦粉のパン、またはライ麦粉に小麦粉を混ぜたパンが作られるようになっていきます。

*中世のパン焼き風景*

(左)「町のパン屋 」火入れから最適温度の250℃まで2時間 大きな生地を奥に小さな生地を手前に置き、蓋をして焼き上げます。短過ぎれば生焼け、長過ぎれば焦げてしまいますから、焼き時間は職人のカンが頼りでした。

(右)「農村のパン窯」 農民達は週に1、2回自分でこねたパン生地を共同のパン窯に持って行き、村のパン職人に焼いてもらいました。ライ麦の混ざった黒パンや栗粉のパン等で、使用料は25個につき現物のパン1つとされ、焼く前に徴収されました。

(下)農民の四季 1423年頃 フランス農村の1年 中世パン図鑑より