イギリス陶磁器界の巨星 ウエッジウッド Wedgwood

ストーク・オン・トレントStoke-on-Torentはイングランド中西部 

スタッフォードシャーにある街で、「ポッタリーズThe Potteries陶器の街」(Potteries:陶器) という通称でも呼ばれるイギリス陶器産業の本拠地です。

陶器作りは12世紀に遡るといいますから、その歴史は筋金入り!

農家が手仕事として陶器を作り始めたところ、近隣で石炭を産出したことや、陶器生産に適した粘土質の土があったことが幸いして、陶器製産が発展しました。

ロンドンから北西へ約250km、電車で約1時間半程でストーク・オン・トレント駅に到着しますが、この駅は産業革命により鉄道が敷かれたことで新設されたもので、自治体としてのストーク・オン・トレントは ダンストール、バーズレム、ハンレー(シティーセンター)、ストーク、フェントン、ロングトンの6つの地区からなり、「ウェッジウッド」の創業者ジョサイア・ウェッジウッドが生まれたのは、北のバーズレムでした。

ジョサイアの生家は父トーマスが小さな陶器工場を経営していましたが、彼が幼い頃父親が亡くなり、6歳で通い始めた小学校は9歳で退学 ジョサイアは長兄が継いだ工場で下働きを始めました。

さらに12歳で悪性の天然痘にかかり、それがもとで右足を切断する悲劇に見舞われます。足が不自由ではろくろが回せず、陶工としての将来には大きな痛手に違いありません。

ジョサイアは長兄の下での見習いが終了したのちも、さらに約3年間働き続け、24歳になるとトーマス・ウィールドンの下で働き始めました。そこで5年間 工場管理やマーケティングなど実務的な経営を学び、1759年 バーズレムに工場を借りてウエッジウッド窯をオープンさせました。この時ジョサイア29歳 叔父ジョン・ウェッジウッドから借金をしての出発でした。

この工場時代に、生涯の友人であり共同経営者となるベントレーと出会います。

革新的な『クリームウェア』

貧しい家庭環境に育ったジョサイアは所得の少ない労働者階級にも手が届く器作りを目指して長年研究を続け、1761年革新的な「クリームウェア」を生み出します。それまでのクイームウェアでは、白い肌を作り出すことが難しいとされていましたが、ジョサイアのそれは美しい乳白色の硬質陶器で、一部の作業が機械化されていたため大量生産が可能で、価格を低く設定することができました。これによりクリームウェアは庶民でも購入可能な実用陶器として多くの家庭に普及することとなります。

↓  ウェッジウッドビジターセンターに展示されている「クリームウェア」

王妃に認められ『クィーンズウェア』の名を拝領…

当時の国王ジョージ3世と妻シャーロット王妃は豪華な宮殿での生活より、田園での暮らしを好み、ロンドン郊外のキューにある小さな宮殿キューパレスで9男6女の子供たちを養育していました。

質素で家庭的なものを好んだシャーロット王妃は1765年家族と過ごす日常生活のテーブルで使うため、ウエッジウッド窯にティーカップとコーヒーカップのセットを発注しました

シャーロット王妃はウエッジウッド窯の「クリームウェア」を高く評価し、「クィーンズウェア」という特別名称を与え、ウエッジウッド窯を王妃御用達に任命します。

世界の名品『フロッグ・サーヴィス』

「クリームウェア」人気は海外にまで波及し、1773年にはロシアの女帝エカテリーナ2世のオーダーで952点に及ぶ「フロッグサービス」が製造、納品されました。

エカテリーナ2世は、ロシア・ロマノフ王朝の黄金時代を築いた

大変に豪傑な女帝で、美術工芸品にも造詣が深く、サンクトペテルブルグにエルミタージュ美術館を建設 世界の名品を集めました。

その女帝がウェッジウッドにチェスメンスキー宮殿で使用する50人分のディナーセットを注文したのです。

名称「フロッグ・サーヴィス」は、 納品予定の宮殿に蛙がたくさんいる沼があることから、「蛙の宮殿」の愛称で呼ばれていたことに由来し、作品全てに蛙の紋章が描かれています。

シリーズ名につく「サーヴィス」は「セット(主にディナーセット)」という意味で使われています。

「フロッグ・サーヴィス」と名付けられたこのディナーセットは、952点で構成され、その全てに異なるイギリス各地の古城や修道院、住宅や庭園などの風景が精緻な細密画で描かれています。

↓ 柔らかな乳白色のクィーンズウェアに黒の濃淡で風景が描かれ、そこだけ緑色がのった蛙の紋章がキュ~ト

ウェッジウッドは3年かかるといわれていた納期を、たった1年で完成させ、さらに利益がほとんど出ない、むしろ人件費を考えると赤字になるような値段をつけて(販売価格2700ポンドに対して、原価は2612ポンド)販売しました。

これはジョサイアと共同経営者のベントレーの商才溢れる目論見があってのこと…

彼らは原価計算を度外視して、あえてこれをプロモーション用に使ったのです。

フロッグ・サーヴィス納品直前にウェッジウッドのショールームで大宣伝を打って展示したところ、大当たり! ロンドン中の王侯貴族や有産階級の話題の的となり、ウェッジウッドの名声が爆発的に向上することになったのでした…。

ジョサイアとベントレーの類まれなるマーケティングの能力を感じさせる逸話です。

フロッグ・サーヴィスを納品したのは1774年 

ベントレーと共同でエトルリア工場を立ち上げたのが5年前

ベントレーが亡くなったのがこの6年後です。

ジョサイア44歳で作り上げたこの傑作は、ベントレーとのタッグを組んでいた黄金時代の産物でした。

← ジョサイヤ・ウェッジウッド 出典:Wikipedia

『フロッグ・サーヴィス』はその芸術性の高さから、マイセンの『スワン・サーヴィス』と、ロイヤルコペンハーゲンの『フローラダニカ』とならび、「世界三大ディナーセット」の1つに選ばれています。

*ロイヤルコペンハーゲンの「フローラダニカ」は1790年ロシアの女帝エカテリーナ二世への贈り物としてデンマーク国王クリスチャン七世が 創立間もない王立ロイヤルコペンハーゲン磁器製作所に制作の命を下したもので、国力を示す外交的な意味合いも大いに含まれていたようですが、女帝エカテリーナ二世の審美眼に対する敬意と存在の大きさを想い知らされる逸話です…。

現在フロッグ・サーヴィスのオリジナルは、ロシアのエルミタージュ美術館に保管され、訪れる人々を魅了しています。

18世紀後半のイギリスでは、モノクローム(白黒)の絵付けと言えば、当時大流行して大量生産されていた銅板転写での絵付けでしたが、オリジナルのフロッグ・サーヴィスは、あえて全て手描きです。

最近では1995年から2000年にかけて、このフロッグ・サーヴィスが銅版転写で復刻されましたが、現在は廃盤になっています。

時代を超えた名品『ジャスパーウェア』

クィーンズ・ウェアは、もともとはクリーム・ウェアという硬質陶器(アーザン・ウェア)で、これ自体は他社でも生産可能なものでした。

ジョサイアが開発した焼き物の中で、最も独創的かつ画期的なものは、フロッグ・サービスの完成と同年の1774年に完成させた『ジャスパー・シリーズ』です。

「ジャスパーJasper」は、石英という鉱物の一種で、緑、黄色、青色、褐色などの美しい色彩のバリエーションがあり、ジャスパーという商品名はそこから取られました。

素地そのものに色を含有させるという画期的な方法で色付けされた青、薄紫、緑、黄などの地色の上に白色の優美な浮彫装飾(カメオ)を貼り付けたジャスパーは、それまでのヨーロッパの陶磁器にはまったくない美を示すもので、たちまちにしてヨーロッパの磁器市場を席捲しました。

ジャスパーで使用されるカメオは古典的なデザインが使われています。当時、エジプトやポンペイ遺跡で大規模な発掘がはじまり、古典・古代への復興熱が高まっていました。

その影響で、古代ギリシア・ローマの美意識が注目され、いわゆる新古典主義がもてはやされていた時代だったのです。

貴婦人たちの間では古代ギリシア風のドレスが流行し、古代ローマの発掘品は大変な人気となりました。

さらに17世紀から18世紀にかけて、イギリス貴族の子息たちの間で最終学習として見聞を広め、教養を身に着ける為にヨーロッパ大陸を巡るグランドツアーが流行ります。古代ローマの遺跡、ルネサンスの中心地であったイタリアは行き先として人気を集めていた…そんな時代背景もあって、ジャスパーにはギリシア神話に登場する神々など、古代ギリシア・ローマ美術が多く描かれているのです。

彼は完成の喜びを、ロンドンで働く生涯の親友で共同経営者のトーマス・ベントレーに伝えますが、ようやく編み出したジャスパーの製法と素材の調合が外部に漏れることを恐れ、手紙を2通に分けて書いたと伝わります。

1774年にジャスパーを完成させた彼は、それ以降『ホメロスの壺』をはじめ数々の「ジャスパーの壺」を完成させました。そして1790年晩年の大作ともいえる『ポートランドの壺』を完成させます。 オリジナルのポートランドの壺はガラス製で、ジョサイアは焼成時の装飾部分と壺本体の収縮率の差の調整やガラスの質感の再現に苦労し、完成させるまでに数千回~1万回の試作と4年の歳月がかかったと伝わります。

この『ポートランドの壺』は、ウェッジウッド社の最高の品質を保証するシンボルとなり、230年余り経た今もなおウェッジウッドのアイコンとして君臨し続けています。

(左)ポートランドの壺は西暦25年頃に古代ローマで作られた作品で、18世紀にイタリアからイギリスに持ち込まれ、大英博物館に所蔵されています。 

(右)これをモデルにしてジョサイアが1790年に作製した同名のジャスパーウェアは、ストーク・オン・トレントにあるウェッジウッド美術館に所蔵されています。

1782年 ジョサイアは窯内の温度を測ることが出来るパイロメーターを発明しています。これにより窯の中の温度調整が自在になり、製品の質や生産性を向上させることができたといいます。そんなジョサイアの孫の1人は進化論を唱えた自然科学者のチャールズ・ダーゥインさん… 

1795年 享年65歳でなくなったジョサイアは、1831年 チャールズ・ダーゥインがビーグル号に乗り込んで、進化論に至る体験や発見をする地球一周の航海に出かけるのを見送ることはできませんでしたが、もし…が実現していたら、さぞかし胸踊らせて送り出したことでしょう…。

運河の開通に尽力

ジョサイアが生きた18世紀後半のイギリスは産業革命の真っただ中…これを機に手工業から機械を使った大量生産・大量輸送の時代に移行します。

そんな中 ストーク・オン・トレントからリバプールの港までの運河計画が提案されると、ジョサイアは直ちに賛同し、その実現に向け積極的に動きだしました。

ベントレーや、彼の舅でありホームドクターでもあったエラスムス・ダーウィンらもこの計画に加わり、1766年運河計画は正式に国王の裁可を受けて着工することが決定…

ストーク・オン・トレントの町から、丘や畑を切り崩してリバプールまでつながる運河が掘られ、完成までに約11年の歳月をかけて1777年に開通したのが、トレント&マージー運河Trent and Mersey Canal」です。 ↓(右下)ストーク・オン・トレントの町を流れるカナール(運河)

結果この運河は、流域に大変な利益をもたらしました。

石炭の価格は以前の半額となり、陶磁器材料の輸送料にいたっては、なんと85%も軽減!

整備の行き届かない道も多い中、馬車での陶器輸送では破損が大量に出たのに対し、船便は安全で無駄もでません。運河はストーク・オン・トレントの経済を活性化し、別名「グランド・トランク運河」と称されるほど地域の発展に寄与したのでした。

ウエッジウッドと同時代にストーク・オン・トレントで創業したスポード社のミュージアムに展示された昔の工場の縮尺模型 左脇を流れるのが『トレント&マージー運河』です。 完成した陶磁器はこの船着場からリバプールはじめ各地に運ばれたのですね。…当時の活気に満ちた積み出し風景が想い浮かびます…。↓

今日 運河は輸送水路として使われることはなくなり、街の風景に彩りを与え、天気の良い日には地元の人たちがカヤックやカヌーを楽しむ姿を目にすることができる憩いの場になっています。