蜂蜜と蜜蝋とレープクーヘン
「蜂蜜の歴史は人類の歴史」イギリスに伝わることわざの歴史を紐解いてみましょう。
スペイン東部 アラーニャの洞窟に8000年前の壁画が残り、ツタを垂らして蜂の巣を採集しようと手を伸ばす女性の姿が描かれています。甘い食べ物といえば果物か木の実しかなかった時代に、蜂蜜は唯一の甘味料でした。糖度が80度もある蜂蜜はこの上なく甘くて美味しいご馳走だったに違いありません。子供や病人の滋養食にしたかったのかもしれませんね。彼女の周りには、大きなミツバチが飛んで、羽音の合唱が迫っていたことでしょう。それでも、危険を冒してでも蜂蜜 を得ようとする命がけの姿です。
同じ頃 インドや南アジア地域ではすでにサトウキビを絞り、砂糖ジュースを抽出して利用していましたが、遠くヨーロッパの地に運ばれることはないまま時が流れ…紀元前4世紀、東方に遠征したアレキサンダー大王がインドからサトウキビ糖をエジプトに持ち帰ります。
それまで甘味料といえば蜂蜜とナツメヤシだけだった古代エジプトでは「ミツバチは太陽神ラーの涙が変化した生き物であり、そのミツバチが集めた蜂蜜は神からの贈り物である」と信じられていたそうですから、〝甘み〟がいかに希少で貴重だったのかが、ひしと伝わる言い伝えです。
養蜂の始り
エジプト古王国時代(紀元前2686年頃~紀元前2185年前後)デルタ地帯を中心に野生のミツバチを集めて飼う『養蜂』が行われるようになりました。
紀元前2500年頃の壁画に、火を焚きながら巣箱から蜂蜜を取り出す様子が描かれ、絵に添えられた象形文字を解読すると、ミツバチを煙で不活性化させ、その巣から巣板を切り取ったら圧搾して採蜜 かめに詰めて封印していた作業の様子が解るといいます。
byhttps://www.loe.org/shows/segments.html?programID=15-P13-00046&segmentID=7
蜂蜜酒『Mead:ミード』の誕生
お酒は米、麦、ぶどうなどの食品に含まれる糖分に酵母菌が取り付き、アルコールと二酸化炭素を生成する発酵の過程を経て作られます。蜂蜜はそのままでは糖度が高すぎて酵母菌による発酵は進みませんが、水で2~3倍に薄めると発酵し始め、1~2週間で美味しい『蜂蜜酒』ができ上がります。
14000年以上の昔 こうして作られた人類最初のお酒 蜂蜜酒は、古代エジプトにおいて儀式や祝宴に欠かせない貴重品で、副葬品にも使われました。
蜂蜜と水を合わせると知らぬ間に素晴らしい飲み物が出来る! まさしく神から授かった飲み物は「ミード」と呼ばれ、古代ギリシャ人も、ローマの英雄ジュリアス・シーザーも、ヨーロッパの海を席巻したバイキングも愛飲したと言われています。
北欧神話には薬効があるハーブやスパイスを入れた「メソグリンMetheglin」というミードが登場します。英語で薬を「Medicine」と表しますが、「メソグリンMetheglin」は「Medicine」の語源にも関わっていると考えられ、滋養に富んだ蜂蜜にハーブの薬効が加わるのですから、まさに『お薬』ですね。
さらに、ゲルマン人には古くから婚礼から1カ月ほどの間、新婦がミードを造り、子宝に恵まれるよう願いながらそれを新郎と仲良く飲む習慣があったと伝わります。その習慣が語源になって生まれた言葉が「Honeymoon ハネムーン 蜜月」… まさしく「甘〜い1ヶ月」
女王蜂は王座のシンボル
古代エジプト 中王国時代(紀元前2040年頃~紀元前1782年頃)
養蜂が盛んになると王家が蜂蜜を税として徴収するようになったため、大量の蜂蜜が集まり、パンやビールと並んで供物として神殿に奉納されるようになります。さらに蜂蜜と蜂蜜酒はファラオ以下富裕階級の食卓に欠かせない食品となり、貴重な甘味料として高官への報酬として用いられるようにもなっていました。
紀元前1175年頃 国王ラムセス3世のテーベの宮殿の製パン所を描いた壁画には様々な形のパンと共に数種のお菓子も見ることができ、小麦粉をこねた生地に蜂蜜を加えて蜂蜜ケーキを作る作業の様子や、貢物として蜂蜜入りの壺を運んでいる姿も描かれて、貴族の食卓で蜂蜜が盛んに使われていたことを窺い知ることができます。https://www.loe.org/shows/segments.html?programID=15-P13-00046&segmentID=7
エジプト第26王朝紀元前664年~紀元前525年 ルクソールの遺跡のひとつ「パバサの墓」にある養蜂の様子を描いた壁画です。
中空の切り株を木製のコンテナーとして使って蜂を飼育し、採取されたハチミツは木製の器に保管していた様子がわかります。上部には大きな容器にハチミツを注ぎ込んでいる姿も見えますね。
紀元前300年には、ミツバチの巣箱を船に乗せてナイル川を移動する移動養蜂も始まっていたことが判っています。ナイル川に浮かべた船に巣箱をつみあげて、岸辺の植物の開花に合わせて下流から上流へ、また下流へと移動するのです。…巣箱内に蜜がたっぷりたまると船の喫水線が上昇しますから、それを目安に採蜜作業を行ったとされ、蜜源になったのはオレンジ、クローバー、そして綿の花でした。
蜂蜜を取った後の巣は加熱して濾過すると、ミツロウ:蜜蝋が採れ、冷めて固まる前に芯を入れて蝋燭として使われるようになるのですが、古代エジプトの遺跡からはミツロウを加熱して溶かしてから型に流し入れて作った人や動物の人形が見つかっています。祈祷や悪霊払いのために使っていたと考えられ、ミイラの傍に蜜蝋細工の人形を供えて死者を慰めたのは日本の埴輪に通じる使い方です…。
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蜂蜜の持つ薬効や豊富な栄養についても認知されており、病人の滋養食として、さらに香りや味がきつく、摂取しにくいハーブなど薬効成分をもつ食品に加えて食べやすくするための助剤として、また皮膚に塗る軟膏のベースとしてなど医療素材としても盛んに利用されていたことがパピルスに書き残されています。
古代エジプトで、すでに今日と変わらないほど有用に余すところなく蜂蜜やミツロウを使いこなしていたことに驚きますが、エジプト、シナイ半島、アラビア半島などで発展した養蜂は、その後、古代ギリシャやローマへと引き継がれていきます。
ギリシャでも『神の食べ物』
ギリシャ神話の最高神ゼウスは幼少時代クレタ島の洞窟の中で、「蜂蜜とヤギの乳で育てられた」とされ、長じてはイダの山で採れる蜂蜜と蜂蜜酒が大好物でした。そしてゼウスの孫アリスタイオスは養蜂神として人々に蜂の飼育を広めたと伝わりますから、ギリシャにおいても蜂蜜は「神の食べ物」として崇められていたことがわかります。
紀元前400年頃のギリシャではアリストテレスを中心にミツバチの科学的研究が始まり、多数の奴隷を使用する大規模養蜂場が登場します。市民も蜂蜜を肉料理や飲み物、デザートなどに利用するようになり、同じ頃 医学の父:ピポクラテスが、炎症や潰瘍、吹き出物などに対する蜂蜜の治癒効果を称賛し、蜂蜜と胡椒と酢を混ぜて婦人病の薬とした処方箋も残されています。
紀元前200年頃にはギリシャ産の蜂蜜を使って72種類ものパン菓子が作られていた記録が残り、蜂蜜酒や蜂蜜入りの焼き菓子は神々への供物とされました。生け贄の代わりに動物をかたどった菓子を捧げ、神事のあとは供物をご馳走に宴が催されたのでした。
八面六臂の大活躍 in ローマ
西暦4世紀の古代ローマで著された『アピシウスの料理書』のレシピによると、コルドゥラ(マグロ)の調理には「胡椒、ラヴィジ、セロリの種子、ハッカ、ヘンルーダ、ナツメヤシを細かく砕き、蜂蜜、酢、ワイン、オリーブオイルにクミン、ヘーゼルナッツ、マスタードを加えて煮たソース」が合うとされ、ウニの調理は、「ウニを熱湯に入れて煮たのち、キャセロールに並べて、胡椒、蜂蜜、魚醤、オリーブオイルを少々、鶏卵を加えてもう一度煮込み、胡椒をかけて食べる… とかなりコテコテ!
何はともあれ 調理に際し甘味料といえば『蜂蜜』でした。 http://bimikyushin.com/blog/2017/03/30/西暦アピシウスの料理書/
料理書には小麦粉生地に蜂蜜やチーズなどを加えたパンケーキも、混入する素材を変えてバリエーション豊かに掲載されています。
皇帝ネロの美貌の妻ポッパエアは蜂蜜で肌や髪をパックし、蜂蜜とロバの乳を混ぜたローションを使ってお肌の手入れをしていたことが知られています。
医療でも蜂蜜に浸した包帯を使って傷の治療を行っていた記録が残り、蜂蜜は無毒で非アレルギー性を有し、傷にくっつくことなく、痛みを与えず、心理的安心感も与えてくれる…蜂蜜包帯は良いこと尽くめの医薬品だったようです。
さらに、ネロの侍医アンドロマコスは、蜂蜜を使った膏薬『テリアカ』を考案 テリアカは狂犬病に罹った犬や毒蛇に噛まれた際の対処薬として、さらにはペストなど感染症の治療薬としても用いられました。このテリアカ…江戸時代にオランダ人が日本に現物を持ち込んだ記録があるというのですからイキの長い良薬だったということでしょうか?
以上岩波新書「ミツバチの世界」坂上昭一著を参考にさせていただきました。
力の素は蜂蜜酒
蜂蜜酒は古代から中世初期のゲルマン人の間で最も一般的なお酒であり、北欧神話に綴られ、ゲルマン信仰の主神であるオーディンはその命と力、そして知恵を蜂蜜酒から得ていたとされています。
蜂蜜を水2~3倍量で薄めてアルコール発酵させて造られ、アルコール度数は11~16%
質の良いビールやワインが造られるようになると生産は縮小していきますが、未だ現役!
現代でもヨーロッパを中心に『Meadミード』の名で親しまれています。
ちなみに生薬やハーブを加えたバイキングの蜂蜜酒「Metheglign」は 医薬品「Medicine」の語源となって歴史に名の痕跡を残しており、人類史最古のお酒は「酒は百薬の長」のはしりでもあるようです。
アルプスに伝わるスキンクリームにも
オーストリア チロル地方 ザンクト・アントンは良質のパウダースノーに恵まれたアルペンスキー発祥の地で、数多くのメダリストを排出してきたアルペンスキーの聖地
その地には雪解けの春そして短い夏の間アルプスの山々に咲き競う草花を生活に用いてきた長い歴史があり、そのハーブ文化はユネスコの無形文化財に登録されています。
生活の知恵として伝わるのがハーブの薬用クリームで、「カレンデュラ Calendula 」:キンセンカのお肌用クリームはこの地方に古くから伝わる家庭薬であり、貧しく薬を買うことができない農家にとって、家庭にある唯一の薬でした。
キンセンカは肌を整える作用に加え、抗菌作用もあって、傷口に塗るとよく効き、含まれるカロテンには皮膚の再生を促す作用があります。そのキンセンカの花を使ったクリーム作りの方法はといいますと、花びらを3日間オリーブオイルに浸して成分を抽出したのち蜜蝋を加え、湯せんにかけます。
蜜蝋が溶けたら、攪拌し、乳化させて冷えるまでおくと、次第に固ってクリームの出来上がり。
カレンデュラの持つ薬効に蜜蝋の優れた保湿性も加わった頼りになる自家製常備薬は、キンセンカと蜜蝋の香りが相まってアロマもまた秀逸です。
キリスト教でも「 蜂蜜は聖なるもの 」
フランスおよび中央ヨーロッパ地域からローマ帝国が去った5世紀から15世紀までの約1000年を中世と呼びます。
この時代のヨーロッパは政権が不安定で、戦乱が絶えず、繰り返すペストの大流行などもあり、庶民は食べて命を繋ぐだけで精一杯 … そんな中、キリスト教が精神的な支柱となり、教会は庶民の生活指導的な役割を果たすようになって、多くの生活文化は教会や修道院によって守られ、発展していきました。
修道院はキリスト教の修道生活を共同で送る人々の住居や生活の場であり、そこでの修道士や修道女の生活は神への祈りと労働からなっていました。孤児や貧しい人には食事を与え、けが人や病人を受け入れて治療を施しました。またお菓子を含む食事作り、蜂蜜酒造りやワイン醸造、養蜂、ミツロウを使ったロウソク作り、養鶏、畑仕事、漁や猟、糸を紡ぐところから始まる衣服作り、大工仕事…その労働は多岐に渡っていました。
古代より、蜂蜜は唯一の天然甘味料であり、神聖で貴重な食材でしたが、キリスト教ではさらに精神性が加わります。
当時女王蜂は交尾せずに産卵するとされており、それは聖母マリアの処女懐胎を連想させ、蜜蜂に聖性が付与されたのでした。さらに働き蜂の勤勉さと秩序正しい営みは、修道院生活の模範とされ、教会が養蜂を後押し、修道院は養蜂推進の中心的な役割を担うようになっていきます。
蜜蝋蝋燭
キリスト教では主イエスは人類を照らす「光」です。祈りの場にはイエスの象徴である「灯り」が不可欠で、修道院では蝋燭の原料である蜜蝋:ミツロウを得るために養蜂を行いました。ミツロウ蝋燭は灯すとゆらゆらと幻想的で、甘い芳香がただよい、煤(すす)もでませんから、教会で用いる蝋燭はミツロウ製に限られました。その副産物として採れる蜂蜜は、薬効成分を豊富に含む薬として扱われ、薬局で販売されて修道院の収入源にもなったのです。↓アーヘン大聖堂にて撮影
『レープクーヘン』の誕生
12~13世紀 遠くインドや南アジアからスパイスが運ばれるようになると、修道院はその薬理成分に期待して、スパイスを病人たちに摂取させようと考えます。馴染みのないスパイスの香りや味を緩和するため、スパイスを粉末にして蜂蜜菓子に混ぜ込んで食べやすくする工夫をしたことからスパイス入り蜂蜜パン『レープクーヘン』が生まれました。
キリスト教では主イエスが断食をして40日間の修行を行った故事にちなみ、復活祭前の40日間を『四旬節』、クリスマス前の40日を『待降節』と定め、肉や卵、乳製品を断って精進します。甘くてスパイシーで滋養に富む『レープクーヘン』は味覚としても人々に受け入れられ、精進潔斎の期間の食物にもなりました。
養蜂の方法は…
修道院に限らず王族や各地の諸侯たちも養蜂に力を入れましたが、その方法は古代エジプトやギリシャ文明当時のまま… 土や粘土を固めて成型した巣穴、わらや草を編んで作った巣籠、木製の桶、中をくり抜いた丸太など蜜蜂が巣作りしやすい人為的な空間を庭先に置く、さらに森林地域では森の木にミツバチが巣を作りたくなるような空洞を彫る…などで、画期的な変革はみられませんでした。
フランドルの養蜂風景『森で養蜂を営むツァイドラー』1568年Pieter Bruegel (1525/1530 – 1569)作
中世ドイツでは「ツァインドラー」と呼ばれる蜂蜜採集職人が蜂蜜やミツロウを供給するようになります。以下ドレスデン郊外のプルスニッツにある「ペファークーヘン博物館」に展示されていた養蜂風景です。お人形は近郊ザイフェンの街の木工玩具
(左)木の幹に穴を作り、ミツバチの巣作りを誘います。↓
(中央)煙をふかしてミツバチの動きを押さえ込んで巣を取り出します。
(右)丸太をくり抜いて作った巣箱
レープクーヘンと蜜蝋細工
豊富に供給されるようになった蜂蜜を使って盛んになったのは『レープクーヘン作り』でした。蜂蜜とミツロウを加工する権利を与えられたレープクーヘン職人たちがギルドを結成 店を構え、木板を彫って木型を作り、そこに小麦粉と、蜂蜜 そしてスパイスを合わせてこねた生地を押し当ててから焼きあげると、精緻で優美なレリーフが浮き出て美しく、職人達はその木型を使ってミツロウ細工やミツロウ蝋燭も作ったのです。
(左)東ドイツ プルスニッツの工房に飾られたペファークーヘン、(右)蜜蝋ろうそく
*量産化のため彫刻の施された木型は使われなくなり、彫りの美しいレリーフが浮き上がるレープクーヘンはプレーンな形状になってしまいましたが、現代でも職業訓練では蜂蜜菓子作りとミツロウの蝋燭を作る技能はセットで習得されるということです。
スロベニアは約8000人が養蜂に携わっており、その品質はヨーロッパ随一といわれる養蜂大国です。その基礎を築いたアントン・ヤンシャは、アルプス南麓のブレズニカ村出身の美術家でしたが、蜂についての造詣も深かったため、1770年 ハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアがウィーンで世界初の養蜂学校を設立した際、初代養蜂指導者として任命され、近代養蜂を確立しました。
近代養蜂の幕開け
養蜂の長い歴史の中では、蜂蜜の採取は養蜂箱のミツバチに煙をかけて不活性化させ、その巣を取り出し、押しつぶして蜜を採るという古来変わらない方法が続けられていましたが、ミツバチの巣を破壊して蜂蜜を採ると、そのミツバチの群れ(コロニー)も死に絶えてしまい、採蜜のたびにミツバチを犠牲にするしかありませんでした。
こうした方法に革命をもたらしたのが、19世紀中頃に米国人ラングストロス牧師がミツバチの習性を生かして発明した「可動式巣枠」で、簡単に取り出せる木枠を巣箱に入れ、この巣枠に巣作りをさせるという画期的なものでした。
http://www.revolutionarywarjournal.com/honey-bees-in-early-america-white-mans-flies-fact-and-fiction/
この発明に続きミツバチが巣作りしやすいようにミツロウを六角形模様にプレスして作った「巣礎」や、巣枠に貯まった蜜を振り出す「遠心分離機」などが相次いで考案され、現在に続く近代養蜂の幕が開けました。
この方法はヨーロッパにも伝わり、ミツバチを生かす養蜂が世界に広がっています。
① 巣箱の中に、ミツバチが巣をつくるための板「巣枠」が入っており、その巣枠の中の巣房(6角形のひとつひとつの部屋)に働き蜂が集めてきた蜜や花粉を集めます。→蜜がたまってくると蜂たちは羽で風を起こして蜜にあて、水分を飛ばして熟成させます。→水分が飛び糖度79度以上になるとミツバチが自ら分泌する蜜ろうで巣房に蓋をして(蜜蓋といいます)余計な水分が入らないようにします。
② ミツロウが多くなった巣枠から蜂蜜を取り出すためミツロウをナイフで切り落とし、蜜蓋の取れた巣枠を遠心分離機に入れてまわすと遠心力が働いて蜜が外に飛び出します。→ろ過しながら蜂蜜を別容器に移し、さらに目の細かい網でろ過して完成です!