最初の一歩

アレンジパンの登場

古代エジプトでは無発酵のパンに続き、発酵パンが生まれ、さらにパン生地にドライフルーツやナッツ・蜂蜜などを混ぜ込んだアレンジパンも焼かれるようになっていきました。

贅沢な材料を使って焼かれるそれらのパンは祭祀の供え物にされ、亡くなった人にも捧げられます。

ドライフルーツやナッツ・蜂蜜などを使ったパンケーキは日持ちもよく、死後の世界を旅するのに適していると考えられ、くわえて富の象徴である材料をふんだんに使ったアレンジパンは、亡くなった人に対する親族の愛や尊敬の気持ちを伝えるのにふさわしい品でもあったのです。

パンの製造技術は古代エジプトから古代ギリシァへと伝わります。アレンジパンも紀元前のうちに伝わり、ギリシャで「平たいこと」を表す言葉「plakous」から『plakous:ピラコウス』と呼ばれ、具材はハーブ、たまねぎ、ニンニクなど種類も増えて、バラエティー豊かに進化をとげていきます。

ローマ帝国のアレンジパン『satura』

遅くとも4世紀末から5世紀初頭には完成していたとされる古代ローマの料理書『De re coquinaria』(ラテン語) の中で、レーズン、ザクロの種や松の実などのナッツ類、ハニーワインを大麦の粉末に混ぜて平らな円形にして焼く『satura』というケーキのレシピが紹介されています。『satura』は贅沢な一品としてお祭りで使用されたほか、日持ちが良く栄養補給にも適していることからエネルギーバー感覚でローマ軍が遠征する際にも携帯されました。

蜂蜜チーズパン

さらに古代ローマでは大麦粉にチーズと蜂蜜を混ぜ込んで作った生地を層状に重ねて焼いてから蜂蜜でコーティングした『蜂蜜チーズパン』も作られ、このパンは結婚式に欠かせないものでした。その使い方とは…

パンを花嫁の頭上で割り、新郎新婦が一緒に割れたパンの断片をかじることで、以後力を合わせて生活することを誓ったのです。そして参列者たちはパンのかけらを集めて持ち帰り、二人の幸運を願いながらお裾分けを食べたのでした。このセレモニーはその後授かる子供たちにも幸運をもたらすと信じられ、蜂蜜たっぷりのパンケーキはパワーと滋養に富み、幸せな新生活を願う儀式にはうってつけの食品だったに違いありません。

ローマの『蜂蜜チーズパン』フランドルへ…

ヨーロッパ大陸でもローマ軍が遠征したガリア地域(現フランス、ベルギーからスイス、ドイツ、オランダの一部)に『satura』や『蜂蜜チーズパン』が伝わっています。

地中海世界を統一したローマ帝国は、遠征を重ねて領土を拡大していきますが、その成功の秘訣の1つは食料確保術にあったとされ、紀元前58年~51年にかけてガリア(現フランス、ベルギーから、スイス、ドイツ、オランダの一部)に遠征したカエサル軍は遠征中 兵士全員に食料を支給し、健康を保ち、士気を落とさぬよう務めながら進軍しています。 兵士たちには水に浸して食べる乾パンや無発酵の平焼きパン、そして『蜂蜜チーズパン』や麦粥などが配給され、パンの量は1日あたり800g から1Kgほどもあったとする記録が残っています。

↓(左)カエサル進軍ルート、(右)現在のベルギー

さらに進軍先に駐屯するにあたっては、果物や野菜、スパイスといった多くの植物を移植栽培し、家畜化したウサギやキジなどの鳥獣類も持ち込んで現地での食料としていました。

こうしてガリアの地にはローマ軍が持ち込んださまざまな食品や農作物が根付き、文化や技術も伝わって、拡散されていったのです。

古代ローマの祝い菓子だった『蜂蜜チーズパン』や蜂蜜やドライフルーツを入れたパンケーキも定着し、13世紀のフランドル地方(現ベルギー)では『レーベンスクーヘン』:「命の菓子」と呼ばれる『蜂蜜パン』が食べられていたとする記録が残っています。麦粉と蜂蜜を合わせて焼くそれはお祭りや結婚式などのお祝いに使われ、十字軍の兵士たちも中東遠征にあたり、兵糧として持参したと伝わります。

さて、その中東地域には13世紀 東方からも『蜂蜜パン』が伝わり、アラブの豊かな食材が加えられて、優れた食品が作り出されていました。

中国の『ミ・コン』アラブに伝わる…

10世紀『宋王朝』の中国で 小麦粉と蜂蜜を合わせ、こねてから成形し、釜焼きして作るパンに似た食品『ミ・コン(ミー・キン)』が生まれました。

200年の時を経て、1206年モンゴル全土を統一し、モンゴル帝国を作り上げたチンギス・ハンは、中国に進行 そこで『ミ・コン』を知り、その栄養価の高さと保存性を大いに評価し、レシピを取り入れたと伝わります。その後チンギス・ハンは交易交渉を進めていたホラズム国の裏切りを理由に1219年中央アジア・西アジア一体にあったホラズム王国打倒のため西方へ向かう遠征を開始します。

モンゴル軍は王宮のあるサマルカンドを落とし、さらに逃げた国王と軍隊を追って、西は黒海のクリミア半島、南はインダス川の中流まで兵を進め、7年をついやして目的をはたしますが、その兵力は20万近く、後方に付き従った家族まで加えると50~60万人にも達する大部隊での遠征であったとされています。

それだけの人々を支える食料の調達は準備と工夫が必要になります。記録によると移動先での現地調達に加え、干し肉やチーズなどの加工品、さらに日持ちがして滋養のある宋の国由来の『ミ・コン』も主要食材として常備され、馬やラクダを使って運搬していました。

遠征途中 部隊がカスピ海東側の中央アジアで、同じモンゴル系民族のトルクメル人居住区に滞在した折、かの地に『ミ・コン』が伝わります。

やがて『ミ・コン』はアラブの人々に広まり、モンゴル軍が去った後も定着… アラブ人はセモリナ粉、スパイス、蜂蜜、アーモンド、ピスタッチオ、シナモン、サフランなどを使い、優れた食品を作り出していきました。

十字軍の遠征は聖地エルサレムの奪還を目指して 約200年にわたり7回繰り返されましたが、第4回遠征(1202~1204年)は、フランドル地方(現ベルギー)の領主フランドル伯ボードワンら北フランスの大諸侯が率いる騎士団からなり、陸路を南下し、ベネチアから船でコンスタンティノーブルへ向かうルートで進軍しました。この遠征で騎士たちは未知の食材と出会います。

十字軍が遠征した北イタリアから中東アラブ地域は様々な柑橘類やデーツやイチジクなどの果物とドライフルーツが豊富にあり、さらに砂糖と、シナモン・ナツメグ・クローブなど甘い香りのスパイスが大量に運び込まれていました。

胡椒とカルダモンはインド、シナモンはセイロン島、クローヴやナツメグは赤道直下のボルネオ島とニューギニア島にはさまれたモルッカ諸島、ジンジャーも東南アジアが原産地です。

これらスパイスはインドから陸伝いの航路でペルシャ湾岸、あるいは紅海に達し、そこからアラビア人の隊商によって、エジプトの港湾都市アレキサンドリアへ、さらにシリア、地中海沿岸へと運ばれ、ベネチアは地中海貿易の基地として繁栄をきわめていたのです。

当時北ヨーロッパにはまだ柑橘類もスパイスも砂糖もほとんどありませんでしたから、十字軍の兵士達にとってこれら未知の食材との出会いは味覚革命ほどの衝撃だったことでしょう。彼らはスパイス、砂糖や果物を自国へと持ち帰り、貿易も盛んになっていきます。

そして『蜂蜜パン』にはスパイスが加えられ、『レープクーヘン』や『パン・デピス』『ジンジャークッキー』へと進化発展していくのです。

          中国の『ミ・コン』アラブに伝わる…

10世紀の中国『宋王朝』の時代 小麦粉と蜂蜜を合わせ、こねてから成形し、釜焼きして作るパンに似た食品『ミ・コン(ミー・キン)』が生まれました。

200年の時を経て、1206年モンゴル全土を統一し、モンゴル帝国を作り上げたチンギス・ハンは、中国に進行し、そこで『ミ・コン』を知り、その栄養価の高さと保存性を大いに評価し、レシピを取り入れたと伝わります。その後交易交渉を進めていたホラズム国の裏切りを理由に1219年中央アジア・西アジア一体にあったホラズム王国打倒のため西方へ向かう遠征を開始します。

↓ 12世紀の世界地図

モンゴル軍は王宮のあるサマルカンドを落とし、さらに逃げた国王と軍隊を追って、西は黒海のクリミア半島、南はインダス川の中流まで兵を進め、7年をついやして目的をはたしますが、その兵力は20万近く、後方に付き従った家族まで加えると50~60万人にも達する大部隊での遠征であったとされています

それだけの人々を支える食料の調達は準備と工夫が必要になります。記録によると移動先での現地調達に加え、干し肉やチーズなどの加工品、さらに日持ちがして滋養のある宋の国由来の『ミ・コン』も主要食材として常備され、馬やラクダを使って運搬していました。

遠征途中 部隊がカスピ海東側の中央アジアで、同じモンゴル系民族のトルクメル人居住区に滞在した折、かの地に『ミ・コン』が伝わります。

やがて『ミ・コン』はアラブの人々に広まり、モンゴル軍が去った後も定着… アラブ人はセモリナ粉、蜂蜜、アーモンドやピスタッチオ、シナモン、サフランなどのスパイス類も加えて優れた保存食を作り出していきました。

十字軍

十字軍の遠征は聖地エルサレムの奪還を目指して 約200年にわたり7回繰り返されましたが、第4回遠征(1202~1204年)は、フランドル地方(現ベルギー)の領主フランドル伯ボードワンら北フランスの大諸侯が率いる騎士団からなり、陸路を南下し、ベネチアから船でコンスタンティノーブルへ向かうルートで進軍しました。この遠征で騎士たちは未知の食材と出会います。

https://sekainorekisi.com/download/4回~第7回十字軍地図/

十字軍が遠征した北イタリアから中東アラブ地域はオレンジをはじめとする柑橘類やデーツ、イチジクなどの果物が豊かに実り、それらを加工して作るドライフルーツも豊富にありました。さらに砂糖と、シナモン・ナツメグ・クローブなど甘い香りのスパイスも大量に運び込まれ、まさに食材の宝庫…

胡椒とカルダモンはインド、シナモンはセイロン島、クローヴやナツメグは赤道直下のボルネオ島とニューギニア島にはさまれたモルッカ諸島、ジンジャーも東南アジアが原産地です。

これらスパイスはインドから陸伝いの航路でペルシャ湾岸、あるいは紅海に達し、そこからアラビア人の隊商によって、エジプトの港湾都市アレキサンドリアへ、さらにシリア、地中海沿岸へと運ばれ、ベネチアは地中海貿易の基地として繁栄をきわめていたのです。

当時北ヨーロッパにはまだ柑橘類もスパイスも砂糖もほとんどありませんでしたから、十字軍の兵士達にとってこれら未知の食材との出会いは味覚革命ほどの衝撃だったことでしょう。

そのアラブの地で十字軍の兵士や同行の料理人たちは『ミ・コン』やアラブ人によって進化した『蜂蜜パン』とも出会います。彼らがそのレシピをお土産とし、さらに ヨーロッパにはないスパイスや砂糖、オレンジなどの柑橘類などを自国へ持ち帰ったことにより、以後貿易も盛んになっていきました。

ペファークーヘンの誕生

チンギス・ハンの遠征によって伝えられた『ミ・コン』と十字軍が携帯してきた『蜂蜜パン』はアラブの地で融合し、アジアとの交易によって運び込まれていたスパイスとともに地続きで東ローマ帝国(現トルコ)からハンガリー王国を経て神聖ローマ帝国(現オーストリアおよびドイツ)に入ります。

当時ヨーロッパでもスパイスの健康効果は十分認識されていたのですが、馴染みのないその強い香りや苦い味をどう工夫して美味しく摂取すればよいのか…は課題でした。そこで近隣住民たちの病院や薬局的な役割も担いっていた修道院の修道士たちが考案したのが蜂蜜パンにスパイスが加えて作る『ペファークーヘン』でした。

現存する最も古い記録は13世紀末に南ドイツの修道院で書かれた「麦の粉に蜂蜜とスパイスを混ぜて生地を作り、『ペファークーヘン 』を焼いた…」とする手稿です。

ドイツ語でケーキは『クーヘン』 そして当時 胡椒に限らず、スパイス全般を「ペファー」または「ペッパー」と呼んでいたことから『スパイスケーキ』は『ペファークーヘン』

蜂蜜とスパイスの相性がよく、ヨーロッパ人の嗜好によく合い、保存性にも優れていた『ペファークーヘン』は、その後 修道院経由で各地に広まっていったのでした。