プリャーニク ロシア語:пряник

『プリャーニク』日本では複数形のпряникиから『プリャーニキ』と呼ばれることもあるロシア伝統の焼き菓子です。小麦粉に蜂蜜、各種スパイス、果物やベリーのジャム、くるみ、レーズンなどを加えて作られます。成形した生地の上部に木彫りの図版を押し付けて刻印する、生地をシート状に伸ばして型抜きする、浮き彫りを施すなどの手法で意匠を凝らして成形したあと、焼いて仕上げられます。

語源は、胡椒を表す「перецピェーレツ」から派生した「пряный プリャーニィ」…「スパイスが利いて香ばしい」という言葉から

9世紀頃のロシアではライ麦の粉にベリーの汁と、たっぷりの蜂蜜を混ぜて焼いた『медовыи хлебミェドーヴィー・フレープ』=「蜂蜜パン」と呼ばれるパン菓子が作られていました。

やがて「ミェドーヴィー・フレープ」には薬効が期待できる野草の葉や根が加えられるように…

12~13世紀 ロシアにもハンザ同盟の外交施設である「商館」が置かる都市もでき、農産物や毛皮の買い付けにやって来るハンザ商人によりスパイスが運び込まれると、「ミェドーヴィー・フレープ」には野草の葉や根に代わり、スパイスが入れられるようになっていきます。それに伴い名称も『プリャーニク』と呼ばれるようになり、ほぼ今日のスタイルの完成です。

遠い異国から届くスパイス類を総称して『スホーイ・ドゥーフ』=「干した香りもの」…あたかも日本の「香辛料」に相当する言葉が生まれるのもこの頃です。

ロシア各地で作り継がれるプリャーニクの味付けや風味は、スパイスと、くるみやレーズンなどの副材料により個性が現れますが、多用されるスパイスは、黒胡椒、ナツメグ、クローブ、ディル、レモン、ミント、バニラ、ジンジャー、アニス、フェンネルなどです。

18~19世紀プリャーニクの製造は最盛期をむかえ、パリやロンドンに店を構える職人もあったと伝わります。

 

              トゥーラ プリャーニク

各地で愛され、今に継承されるプリャーニクですが、特に人気が高く、普及しているのはモスクワの南165Kmにある都市トゥーラ Tula のプリャーニクです。

トゥーラプリャーニクの歴史は17世紀に遡ります。当時のパン焼き職人達は各々が自慢のオリジナルレシピをもっており、そのレシピは厳密に保管され、男子のみ継承が許されていました。

職人は小麦粉や蜂蜜を量るのに分銅を使わず、代わりに小石や金属の塊を用い、それらは施錠した上で人目につかない場所に保管するほどの念の入れようだったとか…

トゥーラは要塞都市として中世から続く街で、当時の要塞『クレムリン』が残ります。                      by https://jp.rbth.com/travel/81984-mosukuwa-kara-tula-ni-ikubeki-riyuu

中に入ると…左から 鐘楼 ウスペンスキー聖堂 武器博物館が並び、お土産処も…

1712年ピヨートル大帝がトゥーラを訪れ、鍛冶屋のデミドフにロシアで最初の軍事工場建設の権限を与えたことで街は大きく変わります。数十年後 トゥーラは東ヨーロッパ最大の鉄工業の中心地になっていました。

トゥーラプリャーニクの特徴は、横に2等分されジャム、果実の砂糖漬け、濃厚なコンデンスミルクなどが挟まれていることです。

 

                            by   http://turkugingerbread.blogspot.com/2011/11/russian-pryaniki-tula-gingerbread.html

型押しの装飾があるのも特徴です。手彫りの型には、さまざまな記号、文字、模様が表されましたが、その彫りの精巧さとレリーフデザインの種類の豊富さがトゥーラプリャーニクを有名にしました。それに貢献したのが武器の生産を担っていた地元の鉄工職人たちで、彼らが自由時間を使って木型を彫ったのです。

まず樹齢30年以上の白樺や梨の木から板を切り出し、板の端に樹脂や蝋を塗ったら5~20年寝かせます。そうして乾いた板に、彫り師が鏡写しに図案を描いてから彫りの作業にかかります。製作時間は型の大きさや柄によっても異なりますが、2週間から3ヶ月ほどかかる大作まで!そうして作った型は70年以上使い続けることができるといわれ、板から生地の欠片を取り除くため、型は油で煮沸して仕上げられました。                                                                 by http://www.oldtula.ru/museum/

プラーニャクは誕生した当初 スパイスの薬効から病に効く薬として認識され、庶民にとっては家族に病人がでると買い求める高価な品でした。そんな庶民のためにベーカリーでは大天使のモチーフが現されたプラーニャクを焼き、人々を勇気付け、病気平癒の願いを込めていたと伝わります。

誕生日や結婚式など 人生のセレモニーに際してもプリャーニクが使われました。

若者は思いを寄せる娘にプリャーニクを贈り、彼女がそれを受け取ったら、求婚にむけて大いに望みあり!

結婚式では新婚夫婦にナッツとベリーがたっぷり入ったハート形のプリャーニクが贈られました。そしてその翌日、新婚夫婦はプリャーニクを携えて花嫁の両親の家を訪れるのも習わしでした。

文字や個々の音節、単語を象って焼かれるものは「いろはの教本」としても使われ、プリャーニクを食べる前に子供達は文字を学び、覚えたらご褒美としてプリャーニクをおやつにもらえたとか…マーシャ、ヴァーニャ、サーシャなど、名前入りのプリャーニクを作って販売する店もあったそうです。

1778年にはサンクトペテルブルグの記念式典にあわせ、女帝エカテリーナにトゥーラプリャーニクが贈られます。その重さは30kgあまり、直径も3m以上あり、表面には街のパノラマが描き出さたもので、女帝はたいへん感銘を受けられたと記録に残ります。

1896年に皇帝ニコライ2世の戴冠式を記念して贈られたものには皇帝の顔の輪郭などが彫られ、その木型は一度しか使用されなかったそう…VIPへの献上品としても歴史を飾ったのでした。

第二次世界大戦中トゥーラは、ソ連最大の造兵廠として軍を支えましたが、終戦後 社会主義体制下の1954年 トゥーラでプリャーニクを工場生産する準備が始まります。 2度の世界大戦で途絶えていた国営会社『全ロシア博覧センターVDNKh』「通称:ヴェデンハ」主催の『ソ連国民経済達成博覧会』にプリャーニクを出品するためです。

ベーキング用の設備が修復され、古いレシピが探しだされます。武器工場で木型が作られ、試作を始めて6ヶ月…出来上がったプリャーニクはモスクワに運ばれ、食品産業大臣に渡されました。N.S.フルシチョフ(CPSU中央委員会の初代書記長)とソ連政府のG.M.マレンコフ首長も試食の結果、最高の評価を得ることができ、即刻ジンジャーブレッドの大量生産体制を確立するよう指示が出されました。

そうして作られるようになった新生トゥーラプリャーニクは長方形で、140X 70 x 18mmほど 小麦粉にスパイス、バターと蜂蜜を加えた生地の中心にジャムを挟んで焼き上げられ、表面には艶をかけて「トゥーラ」の碑文が入っています。

*現在もロシア連邦全土のスーパーで発売中…

現在は当時の流れを継承する『Старая тула』と『Ясная поляна』が工場生産を行なっており、『Старая тула』は博物館も経営 その歴史は135年に及びます。

プリャーニキ博物館  公式サイト:http://www.oldtula.ru/museum/

 

2014年 中央広場に建立された記念碑には「トゥーラプリャーニクの発祥は1685年」とあります。

            トルストイとプリャーニク

文豪トルストイは、1828年トゥーラ郊外のヤースナヤ・ポリャーナで歴代皇帝に仕える伯爵家の四男として生まれました。

彼が1歳半のときに母が亡くなります。

9歳になると、父の仕事の都合でモスクワへと引っ越しますが、転居から6ヶ月後に父も亡くしました。その後は、祖母に引き取られますが、その祖母も翌年に他界 父の妹に引き取られるも彼女も亡くなり、1841年 カザンに住む叔母のもとに身を寄せます。

祖母と過ごしていた頃…学校の授業を放棄し、部屋に閉じこもって「大好きなプリャーニクに極上の蜂蜜をたっぷり塗って食べながら、小説を読み漁り、3日間も過ごした…」と日記に綴っています。

長じてトルストイは彼の生家であり、母方の実家である領主ヴォルコンスキー家の広大な屋敷を相続しますが、彼が好んで家族と暮らしたのはこじんまりした屋敷の離れでした。       by https://jp.rbth.com/travel/81984-mosukuwa-kara-tula-ni-ikubeki-riyuu

広大な領地には日陰の並木道や花壇、果樹園が点在し、咲き乱れる花と生い茂る緑がいつもトルストイを取り囲んでいました。

トルストイは幾度となく、「この屋敷に助けられて執筆活動をすることができ、この屋敷のおかげでストーリーを考えるのに集中することができた」と述べています。

トルストイは庭仕事が大好きでした。

自ら数千本におよぶリンゴの木を植え、育てました。その実を使って屋敷では料理やお菓子が作られ、トルストイの家族が楽しんだのはもちろん、農民たちにも振る舞われたといいます。収穫の一部は販売され、屋敷の収入源にもなっていました。このリンゴ園は今でも大きな収穫量を誇っているそうです。

レフ・トルストイは愛するヤースナヤ・ポリャーナの地に埋葬してほしいと遺言し、埋葬場所も指定していました。それは子どもの頃兄と一緒に、世界中のすべての人々を幸せにしてくれるという「緑色の棒」を探した場所…

この家を「レフ・トルストイの家博物館」としてトルストイが最期の日を迎えたときのまま保っているのは、娘のアレクサンドラ・リヴォーヴナ女史と子孫たち。

『ヤースナヤ・ポリャーナ』は庭や池がある巨大な公園として訪れる地元民や観光客が絶えません。